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2003年04月30日(水) きっかわ れいか?



 最近、コマーシャルなどで目のくりっとした、東京大学出だかのタレントをよく見る。聞けば、きっかわ れい(菊川怜)というらしい。この人の名前を聞くたびに、東京で下宿していた頃のことを思い出す。

 昔、吉川霊華(きっかわ・れいか 明治八年(1875)-昭和四年(1929))という日本画家がいた。今日ほとんど忘れられた。
明治三十四年(1901)に、烏合会(うごうかい)という美術団体が出来る。江戸の文化を好み、浮世絵の伝統を生かした新しい風俗画を創作せんとして、鏑木(かぶらぎ)清方らが言い出しっぺで後、吉川霊華も参加した。今名前が残っているのは鏑木清方くらいなものだろう。この後、
 美術雑誌『中央美術』の経営者であった田口掬汀が幹事となり、文展作家として声価の高かった結城素明、鏑木清方、平福百穂、松岡映丘に、野にいて奔放な画風の作家吉川霊華達が「金鈴(冷ではありません)社」を作った。
金鈴社は個人の自由な発表の場を持とうとするもので、反文展の立場ではなく、良識派の結社であった。
その中の吉川霊華は、文人画を基本とした。

 昔々、田舎から東京に出るに当たって、下宿が探せなかった。人伝に、N 航空に勤める先輩が下宿している所に六畳間があると聞き、転がり込んだ。
偶然そこが、先に書いた吉川霊華の未亡人が住む家の離れだった。当時(1970頃)未亡人は、八十過ぎていたと思う。たん譚の事を呼ぶとき「書生さん」と呼んだ。この時世間で「書生」と言う言葉はすでに死語であった。ちゃきちゃきの江戸弁であった。
猫五六匹とお孫さんがいそうな、現役の看護婦さんをしている人と二人で母屋に住んでいた。

たん譚達は、離れの二階に住まいしていた。時折下から「書生さーん、一服いかがぁ」と声がかかる。母屋で開かれる茶会に、独自の茶の流派を立てていてお弟子さんが集まるところに、時折呼んでくれた。
時に「書生さん、猫になまり(半生のかつお節のようなもの)をかってきてちょうだいな」と用を頼まれる事もあった。
猫が風邪をひいてその猫を抱いて、蒲田の動物病院までタキシーに乗りお供したこともあった(この時、鼻先で猫にくしゃみされて、風邪と蚤をうつされ次の日から猫んだ)。
 
 学校へはほとんど行かず、下宿で、本ばっかり読んでいたからよく声がかかった。テレビは持っていなかった。当時学生でテレビを持っていなかったのはめづらしい部類だろう。テレビを初めて正式に持ったのは京都に来て、今の伴侶と一緒に住み始めた、二十八歳くらいの時で、小さい白黒テレビだった。だから、十八から二十八位までの約十年間の相撲の横綱、タレントの名前、野球で活躍した人、今でもほとんど何にも知らない浦島太郎状態である。
 下宿の下階は物置で、ものを探すのを手伝った事がある。その時に、霊華が芸者らしき三人と仲良く写っている写真を見つけた。未亡人に見せると、「ああ、深川かなにかの芸者でしょ」ときっぱりといった。田舎者にとって、随分男らしい?気っ風を感じてとても新鮮であった。
 京都に移ってから十年後位に、今度は弟の下宿探しの折り、再び田園都市線、自由が丘から二つ大井町方面、北千束(きたせんぞく)の吉川宅を訪れたとき
まだご存命だった。今もしご存命だったら百十をこえる。

 菊川れいの名を聞くたびに懐かしくあの下宿を、昭和にいて明治を感じたことを、思い出すのである。 


吉川霊華 _きっかわ れいか 作品収蔵先
『 聖徳太子像 』 1910 (M43) 五島美術館
『 孔雀秋草 』 1914 (T03) 講談社野間記念館
『 寿星 』 1919 (T08) 松岡美術館
『 魏伯陽図 』 1918-9 (T07-8)頃 永青文庫
『 羽衣翔飜 』 1923 (T12) 東京国立近代美術館
『 浄名居士 』 1923 (T12) 講談社野間記念館
『 瑞彩 』梅薫る夕 1924 (T13) 宮内庁三の丸尚蔵館
『 不盡神霊 』 1927 (S02) 高崎タワー美術館
『 列子御風 』 1928 (S03) 東京都現代美術
『 羅浮僊女 』 1928 (S03) 埼玉県立近代美術館
『 子の日図 』 不明 静嘉堂文庫美術館
『 役小角 』 不明 東京国立近代美術館
『 林和靖 』 不明 五島美術館










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