もうちょっとだけ、あと少しだけ。
給湯室でお茶碗を洗っていたら、課長がやってきてこう尋ねた。
「ロビーに蝶ネクタイでビシっとキメた黒スーツの人が何人かいる けど、なんだろう、わかるかい?」 「いえ、わかりません。なにか院内でパーティとかありますか?」 「いや、ないと思うけど」
結局わからずじまいのまま、仕事に戻る。 するとミニーちゃんが、こっそりとやってきて耳打ちしてくれた。
入院されているSさん、もう余命幾許もないそうなんです。 それでSさんの娘さんが近々結婚するらしいので、病床のお父さんに 一目ウェディング姿を見てもらおうと、さっき娘さんがドレス姿で 来てたんですって。多分、前撮り(*注1)だったのでしょうね。
ミニーちゃんが去った後、書類を眺めながらぽろりと涙がこぼれた。
そんな姿でお父さんのところに行ったなら、お父さんはおのずと 自分の死期が近いことを悟るだろう。 わかってる、そんなことはよくわかってる。 だけど自分の一番きれいな姿を、お父さんに見てもらいたい。 結婚式には出られないかもしれないお父さんに、どうしても見て もらいたい。私の幸せを見届けてもらいたい…。
そぼ降る雨。ひっそりと咲く紫陽花の花。 そんな中ウェディングドレスで外出なんかしたら、裾が汚れて しまうでしょう。だけどそうせずにはいられない娘の気持ちが 痛いほどわかって、私は机を離れてトイレでひっそりと泣いた。
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4年前、私の父も大きな手術をした。 手術室に入る直前、朦朧とする意識のなかで父が最後にしたことは 「じじ、頑張って」と励ます甥っ子の頬をなでたことだった。 父はとても穏やかな笑顔で、孫の頬を手の甲でいつまでもなでていた。 (後から聞くと、父はそのことを全く覚えていなかったけれど^^;)
遠くからそれを見つめていた私は、手術への不安のなか、 父に私の子供を見せてあげられないことを、とてもとても切なく 苦しく思っていた。世間一般的に父を安心させてあげることが できていない自分を不甲斐なく思った。
1日も早く、父を安心させてあげよう。 優しい人を見つけて、可愛い子供をもうけよう。 「世間一般的な幸せ」を父が望んでいるかどうかは別にして、 私にできる一番の親孝行は、きっとこれなんだ…とそのときは心に 刻み付けた。まるでそれが私に課せられた義務であるかのように。
あれから4年、再発もなく父は元気に暮らしている。 あのとき私のなかでひっそりと、けれどくっきりと刻み付けた決意は 日に日に曖昧におぼろげになっていった。自分1人ではどうにも できないシビアな現実。その現実の前に時折打ちひしがれる。
今日うちに帰ると、父が1人で野球を見ていた。 最近、肝機能が上がったので、大好きなお酒を控えている父。
父ちゃん、ごめんね。
心の中でこっそりとつぶやいてみた。 きっと父は、結婚とかそんなのよりも、私が楽しく笑っていれば それでいいと思ってくれている。そんなのわかってるんだけど、 なんでかな、どうしても言いたくなった。
病室なんかではなく、お父さんが元気なうちに、いつかきっと私の ドレス姿を見せたいよ。だからもうちょっとだけ、あとすこしだけ 待っててな。……と今日だけは思いました。まる。
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