漱石風に、「こんな夢を見た」、とかいって(笑)。 二日の朝の夢です。
なんか大きな家にひっこしてくるんですよ。中古の家で、借家なんだけど、前の持ち主のものとか丸ごとうけついでよいらしく、アンティークな小物とか譲ってもらえちゃって、わあいラッキー♪ それはいいんだけど受け継いだものの中には、飢えて死にかけた子猫×1とかもいて、前の飼い主に怒りながら蘇生させたりして。
窓の外には、大きな美術館とプラネタリウムと音楽堂。 窓側が国道の近くに面していて、玄関や庭は路地に接していて、前の家の住人のお友達たちが(家主であるらしい、骨董趣味の私と同年齢の女性や、ガールフレンドをつれた十代の少年)訪ねてきたりしました。 夢の中での脳内知識によると(笑)、そこは交通の便がいいところらしく、東京にいくときも楽だなあとか思ってた。 「さあがんばって仕事をしよう」というところでめざめたので、むちゃくちゃやる気になった二日の朝でしたね。 あの目覚めの良さが、今年の運勢を表していそうで^^
しかしやたら住環境のいい家だったなあ(笑) 子猫かわいかったし。
☆リアルではなかなか引っ越せないので、しかし家だとなかなか仕事にならないので、この週末あたりから、また市内でホテル暮らしをするかなあと思う今日この頃。 こういうとき、観光地に住んでいると、近所にいくつもホテルがあって楽^^ どこにいこうかな。 連休のホテルは、にぎわっていて好き^^
☆それと今年の抱負。 「自分に無理をしない」 「他人の意志を尊重しすぎない」<「尊重しない」とは意味がちがいます。
私は、どうも「誰かの意志」や「誰かののぞみ」を尊重しすぎてしまう傾向があって、それで自分の辛さを我慢して、かわりにじんましんや過呼吸、というくり返しを続けてきていました。 「我慢すること」が美徳だと思っていた。 でも、それは実は、美徳でも何でもなく、客観的にいうと、「自分の人生を無駄にしているもったいない生き方」にもつながっているんですよね。 これはいけないと思った。 じんましんがでる前に、もっと体の声を聞き、自分の「楽」を追求しようと。そうすることは、罪でも悪いことでもないのだと。
友人知人誰かのためになにかをするときは、「無意識のうちに体が動いてしまう」ときや、「どう考えても、私が、いま、そうしなくては」とおもうときだけ、あるいは余裕があるときだけでいいや、と心に決めました。
仲良しの友人たちは、実際みんな、「あなたが辛いときに、そこまでこちらのことを考えなくても良いから。むしろそこまでされると、私たちが辛いんだよ」といってくれるのだし。 その友情の厚さを、私はこれからは信頼していていいんだと思いました。
☆また、「いらない人間関係は切ろう」とも思いました。 私は、性格にちょっと難ありな友人知人がいても、内心「この人のこういう言動はちょっとなあ」とか思っていても、「でも私を好きでいてくれる人なんだし、多少のことは目をつぶるかなあ」とあきらめて、よほどのことがない限り、カットアウトはしてこなかった。あってもフェイドアウト。
で、実際、「難あり」な人々は、人間関係が希薄で友だち少ない人が多いから、切り捨てたらかわいそう、とか、よけいな心配をしていたんですよね。 コミュニケーション関係の能力がない人は、なんだか不器用にかわいそうに思えて、なにかと手を貸したりしていた。
でも、これからは積極的に切る。 嫌いな友だちはいらない。
その人に他人と仲良くする能力がないのは、改善しようとしないその人が悪いわけで、私の責任ではない。その人が他人から嫌われるのは、その人が悪い。つまり、私が世話を焼いてあげる必要もないわけですよね。 私が好かれているという理由だけで、私がその人に親切にする必要はない。 だって、私はその人が好きじゃないから。
好きじゃない人には優しくしなくて良いんですよね。 そのことになかなか気づかなかった、というよりも、私には「友なきひとの友でありたい」という想いがあったので、おもいきることができなかった。 自分自身が、コミュニケーション能力が劣るタイプの友人知人にイヤな想いをさせられても、それでもまだ、その人の良いところを探して、つきあってあげようと思っていた。
でも、私も聖人ではないので、無理はやめようと思います。
☆私は私が心地よい人間関係を、のんびりまったりたのしもうと思います。 自分が、「この人は好きだなあ」と思えるひとたちだけとやりとりしたい。 それがたぶん、私が健康に生きるための唯一の選択なのでしょう。
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