日々の泡・あるいは魚の寝言

2006年07月24日(月) 雨をみながら考えた

数日、長崎市内のシティホテルに滞在してました。
仕事する予定だったんですが、結局まいにちやすんでました。ていうかもう、気分を完全休養にきりかえて、積極的に静かにやすんでました。
実は人間関係もほぼおやすみにして、あれもこれもそれも放置状態でやすみました。いやもうなんか社会人失格ですが(笑)、たまたま頼られたりすがられたりあまえられたりが集中して、処理落ちしちゃいました、ごめんね〜

これいうと、あんまりな気もしますが…
みなさんにはひとりにひとつのささやかな愚痴やたのみごとでも、窓口の私はひとりしかいないわけで。
すみません…。


窓の外は雨で、ひとりきり誰とも会話せず誰の世話も焼かず、仕事もしない時間を過ごすというのは久しぶりでした。
まあ部屋からでれば、それなりに、ホテルのひとやお店のひとたちとは、笑顔でたのしく会話したりする日々だったんですけどね。


ひとりでいることに癒されたというか…
これが本来の私なんだなとおもいました。


いままで、誰かを案じたり心配したり、傷つけないように、と、それを最優先にして、毎日暮らして来ていたわけで。
時に毒を吐いたり、甘えを叱ったり、文句いったりすることがあっても、いつも周囲の誰彼に目を配り、気を使い、世話やらお節介をやいていた。

それがまだ肉親とか、近い範囲の人間関係だけならまだしも、私は誰にでも共感する、人間だいすきなひとですから、ちょっと歯止めがきいてなかったきらいがある。

で、客観的にいって、甘えた愚痴とかでも、相手してきいてあげたりして。
自分の方は、ストレスからくるじんましんで、服に血がにじむくらいかきむしりながら、黙ってなが〜い話につきあってあげていたりとか。
自分が過呼吸とか不眠に苦しんでても、相手の苦悩の方がよりつらいだろうからと、自分の状態ははなさなかったり。

なにかで心理的にぼろぼろなときに、相談メールとかくると、ひとりでひとしきり泣いて復活してから、元気にアドバイスしてあげたりしてたなあ。

こうかくと、自分けなげでえらいじゃん、と、あまりに善人すぎて、どこか笑いのつぼにくるくらいなんですが…


やっぱりこれ、無理しすぎというか、知人がこんなだったらとめるなあといまはおもえるので。

これからは素直に、自分のキャパがたりないときは、相手にそういうことにしようときめました。
そして、愚痴や甘えが度重なるひとたちとは距離を置き、もう誰のことも抱え込まないようにしようと決めました。


私は人間が好きだし、誰かと係わり合うことも好きだから、たぶん生き方そのものは、これまでとかわらないと思います。
お節介も、人の世話もやくでしょう。

ただ、いままで「愛する数多くの他者」の側に絶対的においていた軸を、自分が楽に呼吸できる、自分主体の生き方の方へと、気持ちかえていけないかなあと。


利己的にわがままになるかもしれませんが、それで離れていくひとたちがあれば、しかたないかなあと思っています。

もともと私は人間がすきなだけで、だから、いろんなひとに優しくしていたわけで。つまり、優しくすることで、友達がたくさんほしかったわけじゃない。愛や優しさの見返りがほしかったわけじゃない。つまり、まわりからひとが減ってもかまわない。

でいまも、こちらの優しさやら親切やら愛に、見返りは不要だなとおもっている自分がいます。
そしてそれがたぶん、私の本質というか、ねっこの部分であるらしい。

私はたぶん、雑踏のなかでひとり、いきかうひとびとの幸せや、そこにいない友人知人たちの幸福を願いながら、笑顔でいられる人間であるらしいです。
というかたぶん、その身軽さや距離感が、私の幸福なんだと思う。
遠回りして、やっとそれに気付きました。


無理せずに、楽に自由に。そんなふうにいきることで、遠ざかるひとびとがあれば、しかたないなあと、晴々と思っている自分がいます。
これからは、身軽に生きよう。
さあ、さっぱりしたところで、仕事がんばるぞ〜

なんて、真夜中の自己分析兼、自分語りなのでした。


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chayka [HOMEPAGE]