日々の泡・あるいは魚の寝言

2006年03月06日(月) 病院と「気」

うちの母、七十才が、軽い脳梗塞で、ただいま入院中です。
完全看護の病院なので、家族としては、お見舞いに行ったり話し相手になったり、先生にお話をうかがったり…などの、そう負担ではないはずのことだけをすればいいのですが…。

かつて、父の入院中にお見舞いに行ったときも思ったのですが、病院という場所は、いるだけで、ふしぎと疲れる場所ですね。
今日、弟とそんな話をしていたら、弟曰く、「病院にいるなにかが、『気』を吸い取るようなきがする、って、友だちもいってたなあ」だそうで。
たしかに、すーっと、生命力が、吸い取られていくような感じ。

そういうオカルトふうな原因のほかにも、私の場合、父を病院でみおくっているので、病院は人が死ぬ場所だ、というイメージが潜在意識にすり込まれてしまっていて、無意識のうちに、怖さを感じているのかもしれません。
「怖い場所」にいなくてはいけないということが、ストレスになっているのかも。

そしてまた。家族を病院に預けているということは、病気が急に悪くなったとき、そばにいられないということで、つまり、真夜中や朝方に、急に病院から、家に、知らせの電話が来る(可能性もゼロとはいいきれないので)かもしれないということで…。
夜にいまいち安心して眠れないんですよね。
うとうとしながら、枕元の電話に意識がいつも行っていて、そのうち疲れて眠っている感じ。
これだとほんと、いっそ、病院に付き添いでいた方がある意味楽だなあ、なんて、ぜいたくなことを思ったりもします。

でもまあ、お見舞い生活そのものは、それなりに愉しいこともあります。
もちろん、母の病状が快方に向かっているということが、いちばんうれしくて、気分が明るくなることなのですが、病院でであうほかの患者さんたちやお見舞いのひとびと、お医者さんやナースの方々との会話はたのしかったり、いろいろ考えさせられたり、勉強になったりしますし。
病院が幸い街中の便利なところにあるので、入院に必要な買い物がかんたんにできるとか、息抜きにいける場所がいろいろあるとか。
いつでも楽にお見舞いに行けるし、家にものを取りに帰って、またきたりもできるし、おそくまで病室にいても、帰りが楽だし。
お見舞いの帰りに、近くのカフェで春物の限定品の紅茶を買って、家でひとりでゆったりと飲む時間は、それなりに充実感があって、ほっとするひとときです。

夕べ、家に帰ったあと、いろいろかたづけなどをしたあとの真夜中に、冷蔵庫の中の痛みやすいものを出してきて、お料理をしました。
真夜中の湯豆腐(これは、おいしくそのままいただきました)、真夜中の旨煮。鶏肉にシシトウに、ジャガイモに、と煮た旨煮。
旨煮は、保存しておくために作ったのですが…
毎度真夜中に作る料理は、おいしそうにできあがるものでして^^;
味見ついでにつついてしまい、きっとそのまま脂肪になったと思います…。

それにしても、真夜中に、一人台所で食べるできたての旨煮は美味しかった。窓からみる夜の空気は透き通った色で、ガラスにうつる自分の姿を見ながら、生きているということについて、かみしめたりしていました。
そんな時間をもてたのも、お見舞いの日々がもたらしてくれた、大切なことがらのひとつのような気がします。

明日も元気に、病院に行ってきます。

追伸で<猫日記>。
猫一号レニ子が、いなくなった母を日に何度も呼んでいます。
そのうちあきらめたように、寝てしまうのですが、いちばん母の不在を感じるのは、いつもなら母がおしいれから布団をだし、布団を敷き始める夜のニュース番組が終わったあとくらいの時間。
母が布団を出し、布団を敷くあたりにレニ子はいき、
「あの人がいない、あの人がいない。あの人がおしいれあけて、おふとんしかないよ〜!」と、吠えるように鳴くのです。


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