日々の泡・あるいは魚の寝言

2006年01月17日(火) 誕生日

☆まずはみなさま、かもめ亭や紅茶の時間への書き込みで、メールやカードや、郵便での、お祝いの言葉をありがとうございました。
なんていいますか、やっぱり、もったいないというか、ありがたすぎて、困っちゃってますが^^;
でもやっぱり、いくつになっても、お誕生日は嬉しいです。
祝っていただけますことは、とってもとっても、嬉しいです。

☆一月の今日は、十一年前に、おそろしい大きな地震があった日で、その当時の情景を今年もテレビでみて、同じ今日のニュースで、例の幼女連続殺人の彼に関するニュースも見て。
そして、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、子どもの心臓外科専門のお医者様の特集を見ました。

年間三百回をこえる数の手術をするというそのお医者様は、毎日戦場にある人のようで、押し寄せてくる死神をその手で押しとどめようとする人のようでした。
実在の、今もその仕事にある人のことを、こんなふうに幻想的にたとえるのは、若干の抵抗もあるのですが…
でも何か、その先生の笑顔は、日常をこえた世界で生きている人のような表情に見えました。
小さな子どもたちの命を託され、かばい守り、責任を持って戦い続ける人の毎日というのは、どれほど辛く強く、孤独ででも神聖なものなのか。

☆命は時としてもろく儚く失われてゆくものであり、おもちゃのように奪われたりもするものであり、また一方で、ひとつひとつの命を助けようと毎日戦い続けている人たちもいるものなわけで。

☆人間ひとりにひとつ、当たり前のように与えられている命を、生まれてきて消えてゆき、また生まれてくる命たちの、その意味を、今年も考え続けよう、答えはでないだろうけど、なんて、ふと思った四十三才の誕生日なのでした。

もうそれだけの年月、私はこの星にいるんだなあ。
そして、これから先の折り返してゆく年月は、たぶん、「これまで」よりかは短いだろうはずなわけで。
でもそのいつの日も、道でタンポポを見つけるように、海辺で貝やガラスを拾うように、きれいなものや幸せなことを探していけたらいいなあ、と思っています。

幸せを探して、拾い上げて、喜ぶことが…
時として、それを話したり作品にしたりして、人に教えることが…
私がここに「生きている」ということの意味。
たぶんきっと。


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