日々の泡・あるいは魚の寝言

2004年05月23日(日) 水鏡

今回の上京で、ライトノベルス系の(といいきるのも少し違う気がするけど)作家の、円山夢久先生と、西新宿でインド料理食べつつ、またも語り合う時間をもったわけですが。

三つ違いの、誕生日が同じ人って、やっぱり感性が似てるんだなあ。
と、しみじみ。

語り合うといっても、彼女のしゃべりがおもしろいし、声がいい声なので、私はもっぱら、聞き役で、にこにこしながら相づち打ってたんですが。

とくに、人付き合いの距離の取り方とか、嫌いなタイプが同じなのは、ほほー、と思いました。

私の方が、広く浅くつきあうのが得意で、彼女の方が、少数厳選の間口の狭さがあるという、若干の違いはありますが、基本的に、二人とも、人との間に距離を置く。好きな人相手にでも、完全に寄りかかることはない。

そして、なれなれしい人や、依存してくる人が、嫌い。

なのになぜか、はりつき方の人々に、好かれてしまう傾向がある。

…よっぽど、優しそうに見えるんだろうか(^^;)
それは錯覚なんだけど(少なくとも私は違うんだが)。

いやほんと、誰かにはりつかれるのって、いやですね。
依存されるのは、ぞっとする。
その手の人々から、愚痴られて、甘えられて、泣かれたりすると、マジで、軽い殺意をおぼえます(少なくとも私は)。

それはたぶん、自分が、人に寄りかからないから、なんだろうけれど。

本当は強い人や、ちゃんとした人が、まれに傷ついて、愚痴をいうのなら、いいですよ。立ち直るまで、そばにいてあげよう。話も聞こう。励まそう。
でも、時として、宿り木みたいに、慢性的に、人の支えを欲する人々がいるんだよねえ…。
他人に、お姉さんや、お母さんになってほしがる人々が。

過去、男女年齢問わず、よりかかられ、甘えられた経験があって、そのひとつひとつが、嫌な記憶になっています。
よりかかってきた人々とは、いまじゃもう、すべてお別れして縁を切ってるけど、いい思い出は全然ないですね。思い出すたびに、いやな記憶がよみがえる。もう二度と、接触を持ちたくない。記憶を消したいくらいです。

はりついてきた側、よりかかってきた側にとっては、自分の愛や友情や尊敬が否定されるというのは不本意でしょうけれども、今でもこっちを好きなんでしょうけど、愛情をもてない相手から執着されても、こっちは嬉しくもなんともないわな(^^;)

それを「選ばれる側」の贅沢というならいってもいい、と思ってる。
性格が悪いと、意地悪だと、泣かれてもしょうがない。

こんな気持ちは、たぶん、夢久さんも同じなんだろうと。

なんだか、生き別れの妹にあったような、鏡をのぞき込んでいるような、そんな不思議な気持ちのする、彼女との出会いなのでした。

夢久さんの今回の名言。
「私の愛と時間は、限りある資源です。誰にでもはあげません」

…人間関係広くて浅い私は、そこまでは言い切りませんが(笑)、大筋では、同じこと、考えてるかもしれないです。


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chayka [HOMEPAGE]