| 2002年06月05日(水) |
今の時代の戦争児童文学 |
私は、自分の趣味として、「児童文学作家は、反戦反権力のスタンスを保つべきだ」と思っています。それが、昭和の戦争以降の、日本の児童文学作家の使命だと思っているからですが…ま、あくまで趣味で思ってるだけですから、私個人だけでもそうであればいいんで、他の作家さんは、それぞれの旗の下、お書きになればよいのではないかと思います。
子どもの頃の私は、内外の児童書で、学校の図書室にあるような本は、ほとんど読破したような子どもでした。 で、私が育った、昭和四十年代というのは、戦争児童文学の名作が、多く生まれた時代だったのです(ついでにいうと、テレビドラマの「鳩子の海」あたりも、この時代のテレビ番組だったはず)。 「猫は生きている」「ふたりのイーダ」「火の瞳」「あほうの星」などなど。 忘れちゃいけない、秋桜が庭一面咲き乱れる、「一つの花」。 トマトをもう少しちょうだいの、「まちんと」。<これは出版は少し後かな? 児童書じゃないけど、「戦争童話集」(野坂昭如)なんていうのもあったな、あれも四十年代だったっけ? 時代的にはそれっぽいけど、どうだったかな? ああ、まだ何か、忘れているような気がする…。 私はその悲しすぎる内容に落ち込み、打ちのめされながらも、「これはとても大切なことだから、覚えていなきゃいけない。こういう本を読まなきゃいけない」と、読み続けていたのでした。
で、長じるに従って、鶴見俊輔の評論や対談集、本多勝一のルポあたりを読むようになり、昭和の歴史関係の新書などを読みあさるようになり、今に至るわけです。日本の戦前戦後の昭和史と太平洋戦争は少しだけ得意分野になり、そういうわけで、私の書く物語には、その時代のエピソードが良くでてくるのでした。
岩崎書店の「アカネヒメ物語3〜たそがれの約束」の、見本ができあがりました。 (ありがとう、岩崎書店Yさん。次もがんばりましょうね。装丁のすず猫さんも、かわいくきれいなデザインをありがとうでした〜)。 これは、不思議なものを見る力を持っている女の子と、公園に住み着いている見た目は小さな女の子の神様との友情物語なのですが、今回のテーマは、しっかり、「反戦」です。 …見た目は、娯楽ものSFファンタジーですけど(笑)。 いや、私のねらいとしてはですね、楽しく子どもに読んでもらって、読んだあと、気がつくと、心の中に何か残っている、「あれ、これってなんだろう? でも大事なことみたいだから、覚えておこう」みたいに思ってもらうというのが、目的です。
一言でいうと、「戦争すると、人が死ぬからやったらだめだよ」というメッセージがこめられているお話です。 そんなの、当たり前、良くある話だと思うでしょう? でもね。今の時代の、「身近」で戦争がない子どもたち(戦争といえば、テレビの中の映像でしかない子どもたち)に、実感として、「誰かが死ぬということの重み」を感じてほしかったのです。
戦争をすると、人がたくさん死にますよね? たとえば、東京大空襲では、一晩に十万人もの人が亡くなったといいます。 十万人。凄い数字です。怖ろしい、数字です。 でも、数字で書いたとたんに、死んでいった一人一人の命が、「数」に、ただの「記号」に、「もの」に、「出来事」に、変えられてしまうと思いませんか? 実際には、その十万人の一人一人に、思いがあり、希望があり、愛する人があり、生きていたらしたいことがあったはずなのに…。 死んでいった人の数を、その数だけを数えて被害の大きさを測るな、そういう思考の癖をつけるな、と、私は子どもたちに伝えておきたかったのです。
今の時代、直接に戦争を体験した世代の作家さんたちは、ひとりまたひとりと、鬼籍にはいってしまわれています。 戦争についてかたること、戦争について書くことは、今までのような形の文学では、徐々にできなくなってゆくでしょう。 でも、今回私が語ったような語り口なら、まだまだ「大切なこと」を、語り継いでゆくことができるような気がしているのです。
私は、これからも、命の大切さを訴えてゆきたい。 子どもたちに、自分の命、そして他人の命を大切にすること、守ることの意義を教えていきたい。自分の命の尊厳は自分で守れ、それだけの力と権利は、各自が持っているんだよ、と、ささやいていてあげたい。いつの時代も、これからどう日本が変わっていこうと、状況に流されるな大切なことを忘れるな、と。
それが、戦後の日本の、よき児童文学を読んで育ってきた私の使命だろうと思っています。
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