西方見聞録...マルコ

 

 

それはまちがっている - 2010年11月26日(金)

以前この日記でアメリカで行われている日系人学習についてとりあげたことがある。

第2次世界大戦中の日系人への強制収容という人権侵害を題材に、「自由や人権の侵害」について侵害されたものの立場に共感的に理解し、さらにその後のアメリカ国家による日系人への謝罪と個人補償のプロセスを学び「アメリカが戦争中の不正義をただし謝罪と補償という民主的な対応をしたことを知り、」「(生徒に)どんなときでも、憲法・権利章典およびすべてのアメリカ人(当然マイノリティも含まれる)の市民的自由を擁護するための責任を共有していることを考えさせ、理解させる。」ことを目標としているのだという。

民主主義社会において、市民はすべての市民の市民的自由を擁護するための責任を共有している。

さて、北朝鮮の韓国への爆撃に対して、日本政府が在日コリアンコミュニティに対して高校無償化手続きの停止という形で圧迫を加えるというニュースに触れ、先の選挙で「他に選択肢がないから」という理由であれ民主党に1票を投じた者として心から残念でならない。

はっきり言って失望した。

それはまちがっている。

繰り返すが、私たちは外国に出自を持つ人も含めて、日本社会で暮らすすべての市民の市民的自由を擁護するための責任を共有している。政府がその責任を先陣切って放棄してどうするのだ。

多様な国に出自を持つ人がこの町をこの地域をあるいはこの国を縁のある場所としてともにコミュニティを形成するメンバーとなることはその町の地域のそして国の文化資源であり、言語資源であり、さらには教育資源となる。

その資源価値を評価できないホスト社会の教育政策のもと、多くの外国由来の子ども達が母語を失っている。そんな中、現代日本で行われているコリアン系の教育機関の母語・継承語教育の成果を日本社会は少し過小評価しすぎているのではないか。

カミンズとダネシが「カナダの継承語教育」のなかで、移民の子ども達がそれぞれの母語、継承語を保持した場合、将来外交官、ビジネスマン、軍人その他、の職につく人々への言語教育の国家予算がどれだけ削減できるか試算している。それは息を呑むほどの莫大な金額になる。

言語資源のようなすぐに計算できる「資源」だけではなく、多様な国からこの地をもうひとつの故郷とする人々を友とすることは国際化社会、多文化社会に生きるために不可欠な自文化を相対視する文化相対主義的視点を私たち与えるのではないか。

自文化への愛着と同時に相対化する視点の重要性はこれからの国際協調時代により重要になってくるのではないのか。

本日はどらちゃんが紹介してくれた計量社会学者さんのツイート「 そして、朝鮮学校は、在日コリアンの文化を維持するうえで、とても大切な資産なんだよ。くどいけれども繰り返しておく。それは、在日コリアンの民族教育のためだけでなく、日本のためにもなるんだ。君らが思っている以上にね」から触発されたのでちょっと長めに日記書いてみました。

ところでこんなページもご紹介。

追記
朝鮮学校のメリットに関して上記で紹介した計量社会学者さん(金明秀さん)が、すでにものすごくちゃんと分析されてました。いい記事なのにコメント欄のコメントに脱力。あんないい記事を書いてあんなコメントをもらっちゃうなんて金明秀さんに深く同情します。マジョリティには見えない視覚を持つ人々による「言上げ」はホスト社会にとって大きな資源なのに、なんと「言上げ」しにくい社会を私たちは形成していることか。『朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット』



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