西方見聞録...マルコ

 

 

客体化とは何か - 2007年04月05日(木)

 トトロのカンタ少年やおばあちゃん、それからアフリカ舞台の映画群のアフリカ人登場人物のことをこのごろの日記で「客体化されている。」とよくマルコがきゃんきゃん指摘していたのだが、[客体化」ってなにかな〜ということをつらつら考えておりました。
(すまん適当に言葉使って意味づけをそのあとやってるってあんまり正しくない。でもまあ世の中正しいことだらけではないので許して)

 で客体化とは一言で言って「その人の欲望の不在」なんでないかな〜と思い至りました。単なるステレオタイプ化とかそういうのでは説明しきれない気がしたので。

 たとえばトトロで描かれる人の欲望とは「田舎のおいしい水と空気と野菜でお母さんを癒してあげたい」とか「森の精とであってわくわく」「お母さんと一緒に暮らしたい」とかなんつうのかな、サツキとメイの欲望ばっかで村人はその欲望に献身する存在として描かれる。

 たとえばナイロビの蜂では「ヨーロッパ製薬会社と大使館の陰謀を交渉によって平和裏に解決したい」というテッサの欲望、「テッサがなにやってたんだか知りたい」というだんなさんの欲望、「やばい手紙を思わず書いちゃったからとり返したい」だんなさんの上司の欲望、さらに「製薬会社監視NGO活動をしてたけど、いざ身に危険が及ぶと自分の子どもとの生活を守りたい」ドイツNGOスタッフの欲望と白い欲望は主役から端役まで非常に生き生きと描かれてるんですが、ケニア人側の欲望は生き生き描かれず、みんなその白い欲望に献身してる。テッサのケニア人カウンターパートのアーノルドだって「いや〜自分は恋人と安穏としたいっす」とか「交渉なんて生ぬるいこと言ってないでとっととマスコミに情報売っちゃおうぜ」とかそういうテッサと違う欲望があったっていいはずなんですが、ぜんぜんテッサに異議を唱えません。


 たとえば女性の客体化の例で言えばここでノロさんがとりあげている司馬遼太郎小説の女登場人物たちなんかも、都合よく竜馬にほれて竜馬の欲望に献身する女像として客体化されているといえるかな?

 人はその欲望がリアルに適切に描かれ、欲望充足のプロセスをしっかり追ってもらうことで客体から主体になるのかな?とか考えたりしています。



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