西方見聞録...マルコ

 

 

インスパイア〜道標 - 2004年01月18日(日)

 本日と昨日は共通テスト。あめでおさんのいない休日を娘二人と濃密にすごさせていただきました。ギャラリー無しでもキれずに子どもと過ごす休日、結構課題です。私、自分でいうのもなんですがかなり沸点は高温に設定されている、平常心な女なんですが夫というギャラリーを失うと育児にキれやすくなります。
 今日も1号さんがおままごと道具に水を汲んでいたのをおKさんがひっくり返してホットカーペット上でびちょびちょ遊んでいるのを発見しちょっとテンションが沸点に差し掛かりましたが、1号さんかおKさんかどっちを先に怒ろうかと逡巡しているうちに沸点からテンションが下がって冷静に二人の娘に言い聞かせることが出来ました。

 怒髪天をついたりしないように、昼から娘二人と広陵町の竹取公園に行ってアウトドアに過ごしました。アウトドアすれば誰もキれたり癇癪起こしたりせずに1日は過ぎるのでございます。

 さて先日いとなん女史がBBSにお書き込みになられた下記の投稿から本日は「子どもさん発、母への愛」について考察してみたいと思います。


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独身者の正月part 2 投稿者:いとなん  投稿日: 1月17日(土)


1月3日に実家には米国人と結婚している米国在住の従妹が
5才と7才の男の子を引き連れてやってきた。
(中略)
今年は静かに二人でお絵描き。私も一緒に描いて遊ぶ。
以下会話は英語
私「なにか面白いアニメ見た?」C1C2「ううん」
私「Finding Nimoは?」C1C2「あー!見た見た! 10回!」
私「ひえええ、どこで一体そんなに見たの?」(内心親の苦労を偲ぶ)
C1C2「劇場で3回、家で2回、友達の家で2回、それでー」
その後Finding Nimoのどこの場面が面白かったかで3人で盛り上がる。
私「ところで二人ともガールフレンドは?」
C1「僕はアリソン C2はカレル」
C2「うん、でもC1の本当のガールフレンドはママだよね。僕もそうなの」
私「そうなの?」
C1 and C2 「そう!」
私、大人達に向って
「この子たちったらホントのガールフレンドはママだって!」
従妹は可愛くガッツポーズをとる。おお、蜜月やなー。
と、突然C1がシャーペンの先で私の足をジーパンの上から
ぷつぷつ刺してくる、いたたたた。
C1「なんで言うんだよ−!!!」
私:「だってー、ママもう知ってたじゃない?」
C1「だからってみんなに言っていいことじゃなーい!!」

あー、そうだったのね。「ママが好き」っていう
うれしー気持と恥ずかしい気持、微妙な少年の心だったのね。

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 そうです。お子さん方は母が好きです。うちの娘二人も私の方に短い腕を必死に伸ばして愛を告げます。母親の方は虐待やら過干渉やらに陥らないように細心の注意を払って正しい愛情が注ぐべく水面下でじたばたしておりますが、やつらの母へのラブコールは生得的な遺伝子に織り込まれたかのような愛情表現をいたします。

 私自身幼児期の母への愛というのはなんつうか避けることの出来ないもう100パーセントの愛情でした。しかし時とともに母および家族への愛情と言うのは「愛」を表わす比喩のようなものになり、暗喩のようなものになり最終的に原風景に溶け込んでしまいました。それにかわって、友達やら恋人やらとの獲得的な愛情が原色でギラギラする時代に突入したように思います。

 もうそうなると母親及び家族の愛情と言うのはうざかったり、調子っぱずれであり、現実よりは思い出の母親像がいとおしかったりする様になったように思います。

 早くも1号さんマルコを「うざがる」ような言動をなさいます。1号さんは新保育園でそれはそれは控えめにしていらっしゃいます。1号さんの保育園行事でマルコが出かけて1号さんのお友達や保護者の皆さんとタメ口を利くと
「おかあちゃんははずかしいからだまってて!なんでそんなに失礼なの!」
とお怒りになります。余裕があるときは器用に関西弁を使って級友とコミュニケートしている1号さんですがそういうときは関東弁が丸出しになり、彼女の苛立ちが大変雄弁にマルコに伝わります。こうして母への無条件の愛情はいくらかねじれ、アンビバレンツな代物に変容し最終的には原風景入りを果たすのでしょう。おKさんがまだまだ母たるマルコを無条件に愛してくれているので、1号さんのアンビバレンツへの旅立ちは大変わかりやすいです。

 でもね、まあいいのです。母への愛情を雛型に他者を愛すると言う行為を人は獲得するのではないでしょうか。

 娘2人がわたしをうざく思い、恋人ときらきらしたような愛を語る日がきたとしても、そのきらきらとした愛の原型は母たる私への愛です。どうだ恐れ入ったか。
 娘たちがちゃんと他者を愛せるような人間に成長できた暁に、母への愛は完結するのでございましょう。

 そうすっとお姑さんが嫁と息子の寵を争うというのはぜんぜん意味ないですな。ちゃんと妻を愛することが出来る夫と言うのは、母たるお姑さんへの愛が成熟していると言うことを意味するのですな。逆に嫁姑間の争いに姑方にポジショニングしちゃう夫というのは母への愛がちゃんと愛情の雛型として機能してないことを意味するわけですな。う〜ん。負けるが勝ち?

 まあそういうわけでちゃんと娘二人のマルコへの愛が彼女らの原風景入りできるその日まで沸点を高めに設定して愛される存在として勤めたいと思います。子の母への愛は無条件ですが、母の子への愛は結構複雑です。広い意味での虐待は決して遠い地平にあるのではなくいつも日常と地続きに存在していると、わたしは思っています。


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