西方見聞録...マルコ

 

 

酒井順子、脱力するわたしたち - 2003年12月22日(月)

 このHPのどこかにあるBBSでもかきましたが、ロタ中のマルコは吐き気を抑える本に酒井順子氏の「少子」を選んでよんどりました。書いてることにも凄く笑っちゃった部分があるのですがなによりこの女史の物書きとして生きるスタンスがウケました。

 なんか文章を書く人ってものすご〜く業が深かったり、吐き出さずには居れないエネルギーの塊を抱えていたり、うおおおお、というテンションの方が多いような気がするんざんすよ。酒井順子氏のかきっぷりは「脱力」の文学とでも申しましょうか、「あ、もう疲れちゃいました、そんなことできません、わたくし。」みたいな低体温なモードが全体を支配しています。それなのに、最後まで読者を引っ張っていくのですから、脱力はたんなるポーズなのかもしれません。なぜならその脱力モードの中、言ってはならない数々の暴言「洗濯機があるのになぜ自動赤子洗い機はないのか?」とか「少子化とめたかったら、宗教にはまってみれば?/戦争してみれば?」等が吐き出されてくるわけです。

 マルコ的に一番心打たれたのは下記の部分です。
「子持ち文化」が栄える「子持ち国」と「未婚文化」が栄える「未婚国」の間の葛藤に触れて、国は後者に対して前者への「移民歓迎」の告知をだしながら、子持ちの女性たちのやつれ果てた顔は「入植に失敗した移民が故郷の弟に『お前はそっちに残ってがんばれ!』と手紙を書くようなもの」なのだそうです。

 また両文化に属する者同士の交流は国際交流のようなもので「日本人てちびばっか」「アメリカ人って薄着過ぎて馬鹿っぽい」と腹では思っていても「てんぷらおいしいで〜す」「さんきゅう、わたしもハンバーガー大好き。」みたいな「上っ面な褒めネタを応酬させるムードに似て、多少のものめずらしさはあっても、意外と不毛で疲れるもの」と定義しています。根性がなければ異文化交流はあきらめて同じ文化の者同士かたまって過ごしちゃうのがラク。っと再び「根性無し」で「ラク」な人生の心地よさが歌われます。

ここで、根性出して異文化交流してみることにいろいろな問題の解があるのかもしれませんね。

 前にBBSで書いたことがあるのですが子どもを生むと、部族のおきての体現者として先祖の視野を手にいれ、垂直方向の視界が広まり、「子どもを生んで視野が広まった」と錯覚する場面が増えます。しかし、垂直方向の視野の深まりは確実に水平方向への視野狭窄をもたらします。具体的な例をあげると、同性愛者の知人のHPを読んで、さらにその後子持ちの友人と同性愛について語った時に、子持ち文化圏の人間の水平方向への視野狭窄を物凄く感じた、なんてことがありました。

 そんなわけで酒井順子の語る脱力未婚文化は垂直方向への視野に気を取られている子持ち女になかなか得がたい水平方向の視座の1つである未婚文化の本音を提示してくれるものと思われます。

 あと「子育ての素晴らしさを力説するのは宗教っぽい」というところで、マルコはそうだよな〜とつぶやいてしまいました。子育ては渦中に巻き込まれているものにとっては「私は体育会系の合宿で血反吐はくまでがんばった!」的な頭の中ドーパミンでタブタブな状態になってるランナーズハイの中の快楽と言うのがあるように思うのですが、コレは渦中にいない人にはひたすら臭いだろうな〜。この辺の「渦中で夢中な人の臭み」に関してはさるとるさんがさっくりまとめておられるのでそちらに譲ります。


 このようなことがもし朗々とした文体で居丈高に謳いあげられていたら、読者はたまらないと思うのですがあくまで腰を低く、疲れた振りを装いながら、どちらのスタンスを生きる人をも笑わせつつ、話は進んでいきます。

 そういうわけでわたしは酒井順子の脱力感がとても気に入りました。今後も読んで脱力しながら未婚文化の本音に迫っていきたいです。
 

 でも一番受けたのはあとがき書いてたのが「業の塊」の内田春菊だったことでございましょうか。編集者、いい人選です。


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