西方見聞録...マルコ

 

 

インスパイア〜土着の知の力 - 2003年10月13日(月)

 本日関西は大雨&大風で、この辺に住む乳幼児を抱える皆さんはどこも1日おうちの中で篭城を余儀なくされたことと存じます。そんなわけで本日あったことをまじで書くとエンドレス大貧民大会やって、完膚なきまでに1号さんが負けて、大泣きした、とかそういう日記になってしまいますので、ちょっと本日は思ったことなどを記そうかと思います。


 本日は最近の掲示板ネタの中でちょっと心を打ったフレーズがあったので、そこから私の考えたことなんかをつらつら書かせていただきます。

投稿者:さるとる  投稿日:10月 9日(木)09時52分19秒
(前略)
三代目貧乏学者@人文系、のじぶんとしては、個人的には
「知は力なり」への信仰は各細胞にしみわたってると思う。
だけど、その場合の「力」は「経済力」ではなくて、
「想像力」でしょうか。
優勢な価値観(たとえば経済至上主義、東京一極主義)から自由になる力。
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んで、このあと、いとこが戦後大混乱の中からハイデッカ-研究者への道を歩んだ木田元の例を引きながら「知への渇望」の話なんかを触れて、「でもなぜそこにある知は常にヨーロッパの「知」なのでしょうか。」と、ジンバブエ文学研究者らしい感慨を述べております。

 このさるとるさんといとこのやりとりを見ていて、私は福島県と新潟県の県境の小さな村に暮らすある青年(今は壮年かな)を思い出していました。

 わたしは卒論と修論で福島県の過疎・豪雪地帯の山地僻村の近代化戦略を取り上げていました。多くの村が炭焼き・木地挽き(おわんの原型づくり)を生業に暮らしていましたが明治・大正・昭和と里から押し寄せる近代化の奔流の中でむなしくその歴史を閉じる村、過疎を逆手にとって「田舎であること」を売りに村おこしをしていく村など過疎との戦いは本当に一言では語れない多様性と凄まじさを秘めたものでした。

 そうした村々に住み込んでフィールドワークを繰り返していた中で私がであったタカオさん(仮名)が今日の話の主人公です。

 タカオさんは中学卒業と同時に家を出て高校に行き、その高校を卒業すると横浜の建設会社で6年間働いたそうです。その後生まれ故郷の村の役場で臨時採用の公募が出たから帰ってくるようにお父さんに言われ、心の整理もつかないまま村に戻り、村役場で働くようになりました。そのころのことを彼が文章にしているのですが、「毎日夕食時になると、涙が止まらなくなった。故郷の村に戻ってきたのに自分はこのままどうなってしまうのかと思うと不安で居たたまれなかった。」そうです。

 その後、村で細々と継承していたカラムシ織りの技術が本州では唯一生き残った古代織の技法であることから民俗映像文化研究所の姫田忠義氏が記録映画を撮りに村を訪れます。その姫田氏の撮影を村に残った若者と協力しながら手伝う中で自分たちの故郷の中にある価値に気付いていき、村で暮らす若者がイキイキできるような活動をしよう、とボランティア協会を結成し、その土地の言葉で「ゆっくりと」という意味の「じねんと」というミニコミ誌を作成することになりました。そうした活動の中からタカオさんは以下のような感慨を抱くに至ります。
「それまでは東京が世界の中心で東京のほうばかり見ていた。でも世界の中心は自分の足の下だと気付いた。それからは見えていた風景が全部かわった。」

 撮影後も姫田氏の紹介でたくさんの有名無名の文化人が村を訪れ、村の若者と徹夜で講演や激論を交わしていくようになりました。「東京に原発を」の広瀬隆、中沢新一、フォークシンガーの笠木徹(ちなみにタカオさんたちもフォークグループを結成しその後CDデビューしちゃってます)。山口昌男はその後村内に住み着いてしまい廃校になった小学校に膨大な著作を置いたりもしました。

 
 タカオさんたちの村はその後、バブルの時代、900億円規模のゴルフ場、スキー場などからなる巨大リゾート建設計画が持ち上がります。村長は「村100年の計」といい計画を積極的に推し進めますがじねんとの若者たちがそれこそ命がけのリゾート建設反対運動を起こし、村役場や農協に勤めていた若者たちには信じられないような逆風に逢いました。いまでこそ巨大リゾート開発なんてヤバイことはわかりますがバブルの渦中の日本で、地元にほとんど産業のない豪雪過疎の村でそれを見抜き、声をあげるのは並大抵のことではなかったと思います。

 私は20歳のころから、定期的にタカオさんの村をおとずれ16年間「じねんと」購読者でした。アフリカにいる時代は何回か頼まれて、じねんと誌に寄稿したりしました。わたしが修士号とって即アフリカを目指したのも、その後タイ東北部の貧困地帯をフィールドにしたのも原点はタカオさんとじねんとの人々がわたしに示してくれた「土着の知の力」だったように思います。

 人はどこにいても学べる。

 誰の足の下の土も美しい。

 アフリカでもタイでも支援に行くという体裁はとっていましたが、私はアフリカのお母さんたちからもタイの中学生からも学んでばかりいました。極貧のタイの中学生も助けられる存在ではなく誰かを助ける存在でありたいそのためには教育が必要なのだと私に教えてくれました。

 中央から発せられる力をただ受身で受け止めるのではなく、足元から涌きいづる力を感知し、この手につかみとるために、「知」が必要なのだと私は思います。




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