【復活!】ダイエットなDIARY
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講義でイランの民族宗教ともいえるゾロアスター教について触れようと思っている。
そこで、「新世紀エヴァンゲリオン」を観てみた。
エヴァンゲリオンというのは福音という意味であり、ギリシャ語である。 現在でもキリスト教の諸宗派には多くのエヴァンジェリカル・チャーチ(福音派教会)がある。
古代イランでは宗教的な知識は口誦によって伝えられ、書き記されなかったので、ギリシャ語の文化を持つ者が記した文字資料によっているからである。
つうことでこのアニメ、以前、話題になっていたことは知っていたのであったが、ぢつは一度も観た事がなかった。
興味がなかったからである。
この日記の読者の方の中には誤解されている人もいるかもしれないが、オレはオタク系ではない。
では何系かといえば、アカデミック・タコツボ系である(笑)。
マニアックにやたら深く掘り下げた知識がある部分もあるが、かといってそれにのめりこむこともない。
それはともかく、この「エヴァ(と略すらしい)」を全話観て見た。
これがちょっと面倒くさい。
全26話なのであるが、最後の25、26話はTV放映版とは別に劇場版がある。
だから実質28話である。
その他に「シト新生」とかいう、TV放映分をまとめた、いかにも角川商法といった劇場版もある。
二日かけて、これらをすべて観た。
感想であるが、なんか、子供がウジウジしているアニメである。
この状態は基本的には最終話まで続く。
しかもTV放映分の25、26話はもうアニメであることを放棄してしまっている。
こうした多元的現実と内面の葛藤を、フラッシュ・バックの多用と台詞で表現する手法は演劇の世界のものである。
オレ自身、そういった脚本を書いたり演出したりという経験があるのでよく分かる。
こういう形で言いたいことというか表現したいことをやってしまうと、もうお話などどうでもよくなってしまうのである。
これではあんまりだ、と思った人が多かったのか(どうかは知らないが)、劇場版が作られ、一応話は完結したっぽい。
物語には旧約聖書・新約聖書、そしてそれらに影響を与えたゾロアスター教の世界観が出てくる。
ロボットが戦う相手の敵は「使徒」という。
三つの人格型コンピュータは「マギ」というが、これはキリストが生まれる予兆として不思議な流れ星を追ってきた「東方の三博士」の話からとられている(「マタイによる福音書」)。
「マギ(Magi)」というのはゾロアスターの司祭を指すギリシア語で、キリスト教が国教化された後は、異教として退けられた。
魔術をマジックというが、その語源となっているそうだ。
その他、「生命の樹」だの、「死海文書」だのも使われる。
登場人物は基本的にみんな死んでしまうし、すべての生命自体が溶けて混ざり合ってしまう。
自分と他人とを分ける心の境界がなければ、自分も他人も無く、他がなければさびしいこともなくなる、というようなカンジである。
まあ、それでもいいのであるが、そこへ到るストーリー上の必然性と映像的な説得力に欠けてしまっている。
何のために長々と28話まで観てきたのか分からなくなってしまった。
まあ、哲学や宗教に到る道はどこからでもいいので、そういう意味ではこの作品にも一定の役割というかニーズがあったのかもしれない。
ただ、あまりにも世界観の使用が折衷的というか混ざりすぎているので、これにはゾロアスター教徒もびっくりであろう。
善悪二元論や神とか終末観とかは、おそらくは永井豪や石川賢からアニメの世界に持ち込まれたものであろう。
しかし、こういった作品ができるのも、やはり日本人だからだろうと思う。
生活の基盤にユダヤ=キリスト教やゾロアスター教をもっていないからだと思える。
もしもこうした文化圏の人々であったなら、それはあまりにも衝撃的であるので、気楽にアニメ化することはできない。
本気で最終戦争が起こり、死者は墓場から復活し、キリストも復活して千年間統治するということを信じている人々にとっては、日曜毎に教会へ行き、さらに自分の罪を告白し懺悔する人々にとっては、それはあまりにも冒涜的なのだろうと思う。
それから目に付いたのは、(せいぜい80年代どまりの)ちょっと古い心理学用語の多用である。
これはおそらく、日本的な会社制度にその問題の根があるのかとも思う。
父親は会社人間で遅くまで残業。 母親もパートに出る。
そうしないと生活できないほどに、日本社会は実は貧しいのである。
子供は取り残されるか、保育園、幼稚園、学校、塾などで多くの時間を過ごすようになる。
これは近代化の問題であり、農業国であることをやめた産業体制の問題である。
家族や家庭の希薄さは、そうした状況を作り出す社会制度上の問題でもあって、これは哲学や心理学では解決できない問題である。
つまり、この作品が扱っている「テーマ」は、宗教や哲学よりも、むしろ社会や制度上の問題の占めるウエイトが大きいのではないかと思う。
なんか病んでいるなあ、つうのが率直な感想であるが、この作品が作られた当時はやはり1999年を目の前にしていたころでもあり、オウム事件の衝撃も覚めやらぬ頃であったろうから、社会的なリアリティもあったのかもしれない。
これを書いている現在は2003年であるので(麻原裁判の判決は来年になるという)、こういう批評はちょっと酷かもしれない。
まあ、しかし、アニメーションの技術自体は、デジタル処理されたリニューアル版でもあったので、非常に高く、映像も綺麗であり、動きもよい。
タツノコプロは「ガッチャマン」や「破裏拳ポリマー」や、さらに掘り下げれば「マッハGOGOGO」などを作ってきたところであるが、名誉挽回といったところか。
子供の頃に、少年マガジン誌上の「デビルマン」で受けた衝撃のようなものを、これを観ていた子供たちも受けたのかどうか、ちょっと疑問である。
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