【復活!】ダイエットなDIARY
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2003年05月01日(木) 薄明




どうも。僕です。








今日は天気がよかったので洗車をした。



普段はスタンドで機械にかけてしまうので自分でやることはあまりない。


時間があればこそ、である。



実はこのために、先日ホームセンターで洗車グッズを買っておいたのであった。





しかし、最近の洗剤とかワックスとかはとても進歩している。

らくらくである。


タイヤ用の泡が出る「ノータッチ」とかすごいね。


まるで新品のようである。



しかも不況のせいか安売りしていて、みんな280円とかで買えちゃう。



ホームセンターではクレジットカードが使えるようになっているので、カードで支払う。


いつも、1000円以上の買い物の場合は、使えるならカードで支払いをするように心がけている。



ポイントが溜まる、ということもあるが、どこでいくら使ったかの記録が残るからである。


これらはネットでチェックできる。



大きなスーパーや書店などもほとんどがカードで支払いが可能だ。

高速道路の料金も同様である。



あとはコンビニがクオカードとかをやめてクレジット決済が可能になれば、オレ的にはほとんどキャッシュは必要なくなる。













ちまたでは電磁波がどうのという白装束の集団が問題になっている。


千乃正法とかいう団体であるが、オカルトというかドンデモ系では有名な人を教祖とする集団である。





最近、いろいろと人間のだまされやすさに関する本を読んでいるが、その中で面白いものをひとつ紹介しよう。








誕生日問題というのがある。




それは一定の人の集団の中において同じ誕生日を持つ組み合わせの発生率に関するものである。



確率や組み合わせの問題として有名なもので、最近は教科書にも載っているらしい。




ここに23人の人の集まりがあったとしよう。


このなかで、(何年生まれということと閏年を度外視して)同じ誕生日の人が少なくとも一組いる確率はどのくらいだと思うだろうか?




これが、なんと50%なのである。



つまり5割で、これはコインを投げて裏と表が出る確率と同じ、半々である。




40人で89%で、41人いると90%を超えてしまう。





だから大体クラスに一組は同じ誕生日を持った組み合わせがいる確率はほぼ9割に達するのである。









最初このことを知ったとき、かなり驚いた。






これがもしも男女の組み合わせであったら、運命の赤い糸とかを感じちゃうのであるが、9割ということを知ってしまうと大して不思議なことではなく、よくあることである。





仮にaとbの二人しかいなかった場合は、二人が同じ誕生日である確率は365分の1である。




組み合わせとして考えると、ab,あるいはbaしかない(これは重複しているから実際には1だ)。




a,b,cの3人の組み合わせはab,ac,ba,bc,ca,cb。

a,b,c,dの場合は、ab,ac,ad,ba,bc,bd,ca,cb,cd,da,db,dc,とどんどん大きくなっていく。






理論的には一年は365日しかないので、365の可能性しかないから、366人いれば、必ず誰かと重複しているはずである。





こうした限られた可能性は、組み合わせの数が多くなればなるほど食いつぶされていくのである。




そして23人になったとき、その可能性は50%になり、41人で90%に達するのである。





こうしてみるとちっともアンビリーバボーではないが、もしも実際に自分と同じ誕生日の人がクラスにいたらアンビリーバボーと思ってしまうに違いない。








どうして実際の確率計算と人間の直感とのギャップがあるのかということを考えてみた。






おそらく、誤りの原因は、この計算があくまでも誕生日の同じ人がいる確率であり、自分と同じ誕生日の人がいる確率ではない、ことである。




しかし、どうしても誕生日というと、あまりにも自分に固有の日だという思い込みがあるため、他人同士の組み合わせにまで考えが及ばないのである。



もちろん、自分と同じ誕生日の人がいる確率はもっとずっと低い。





120人まで計算したサイトがこちらにあるので、計算式と解説についてはご参照下さい。





もっとも、こうした確率論的事実を知ったところで、人間はだまされにくくなるようなことはないであろう。


人間は、常になにかに意味を求めてしまうからである。




分析心理学のユングは、シンクロニシティという概念で「意味のある偶然の一致」というテーマを取り上げたが、人間は常にそうした事象に意味を求めてしまう。



人間は自らの作り出した意味世界(あるいは言語世界)の中で生きているからである。






たとえば、英語のトワイライトが「薄明」という意味であり、これは状態を指す言葉で、ある意味科学的である。



科学的には明け方と夕闇は同じ現象であるが、やっぱり「夜明け」と「夕方」では人間にとっての意味は大きく違うのである。










昨日書いた時計のムーヴメントであるが、今日説明書を読んだが、やっぱり合わせ方が分からない。







同じこととはいえ、やっぱり気になっちゃうのである。


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