東南アジアサッカー調査メモ...ogaoga2k

 

 

ハッピバースディ、ディア、AFC - アジア - 2004年05月26日(水)

さて、今年はFIFAが生まれて100周年。

んでも、実はわがAFCが生まれて50周年、ちゅー記念すべき
年なのであります。

アジアカップでは、なにやらたくらんでいるらしいのは喜ばしいの
でありますが・・・


全然、日本のメディアは取り上げねーじゃねーか!!

つーか、サカマガもサカダイも、表紙は全部モハメド・ビン・
ハマム氏にして祝うとか、そんくらいヤレや!

(無茶言ってるな、俺)


ちゅーわけで、実はAFCに関しての歴史とかは、あんまし
日本のメディアに載らないっぽいので、とりあえずAFC
50周年ページらしきものを翻訳してみました。



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■興味深い事例

●1910

 欧州サッカーにおける初のアジア人選手は、フィリピン・イロイロ出身の
 (1896年生)Paulino Alcantaraである。彼はスペインへ移り、FC
 バロセロナでプレイした。彼はクラブ史上最高のゴールゲッターであり、
 375試合中、374ゴールを決めている。

 彼の「プロ」デビューは、1912年に8−2で勝利した試合であり、
 3得点を決めている。スペインでは5回の優勝を経験し、フィリピン・
 スペイン両国の代表選手としてもプレイした。

 彼の最も記憶に残る活躍は、1922年4月30日に、ボルドーの
 Bouscat Stadiumで行われたフランス−スペイン戦であり、そこで
 ゴールを決めた時である。



●1936

 インド人選手、Mohammed Abdul Salimは、英国のクラブで初めて
 プレイしたアジア人選手である。セルティックでプレイした彼は、
 その裸足でボールをさばくスキルに当時のメディアは驚き、
 「新たなるスタイル−インドの魔術師」と報じた。

 「インドからセルティックにやってきたサリムの黄金の足が、
  パークヘッドの観衆に催眠術をかけた!彼は、足の親指の上に
  ボールを落とさずに乗せ、足の小指を使ってボールを落とす。
  そしてそれを捻って頭上に上げ、DFを抜き去ったのだ。」

 セルティックはこの年、スコットランド優勝カップを手にした。


●1938

 蘭印(後のインドネシア)が、アジアのチームとして初のW杯出場。


●1945

 Frank Soo、Sir Stanley Matthews、Neil Franklinは有名なトリオと
 して知られている。彼らはイングランド代表として、1945年2月3日、
 ヴィラパークでスコットランドと対戦した。

 Sooは英国人の母と中国人の父のもとに生まれ、今日までイングランド代表
 に入った唯一のアジア人選手として記録されている。

 彼は英国の1部リーグ、Stroke City, Leicester City, Luton Townと
 いったクラブでプレイし、後に監督として成功した。

 彼の最終監督の経歴は、60年代初頭にイスラエル代表監督である。




■AFC50年の歩み


●1954

・今日あるAFCは5月8日、フィリピンのマニラで産声を上げた。
 第2回アジア大会の会合で、アジアサッカー連盟は正式に組織される
 こととなった。

 アフガニスタン、ビルマ、中華民国、香港、インド、インドネシア、日本、
 韓国、パキスタン、フィリピン、シンガポール、ベトナム12カ国の各国
 サッカー協会が合意し、栄えある初代会長には、Sir Man Kam- loh(香港)
 が選出された。

 AFCの事務局は香港に置かれ、初代事務局長には、Lee Wai-thong氏が
 就任となった。


 
・AFCは、スイスのベルンで行われたFIFA総会において、1954年
 6月21日、正式に承認され、FIFA理事会で議席を持つことも認めら
 れた。



・韓国は、初のAFC代表のチームとしてスイスW杯に参加した。
 韓国はチューリッヒで行われた初戦のハンガリー戦では9−0、
 ジュネーブでの試合はトルコに7−0で敗れている。


●1956

・第1回アジアカップが香港で開催され、韓国が優勝した。



●1957

・当時のマレーシアの首相Tunku Abdul Rahman氏が、マレーシア独立の
 記念行事としてムルデカ・カップを開催。この大会はまたたく間に、
 アジアのサッカーイベントとして権威ある大会となり、アジア各国の
 トップレベルの代表チームが参加することとなった。


●1961

・英国の1部リーグBlackpool所属の香港人選手Cheung Chi-doyが、
 11月25日の対Sheffield Wednesday戦で初ゴール。アジア人選手
 として記念すべき日となった。
 

●1964

・選手以外のサッカー関係者も、世界大会に進出を開始。
 東京オリンピックにおいて、シンガポール人のGreg D'Silvaは、
 国際大会で笛を吹いた初のアジア人審判である。
 

●1966

・北朝鮮がイングランドW杯で、欧州の強豪、イタリアを1−0で破り、
 サッカー界に名を残した。Pak Doo-ikの得点は、W杯において始めての
 アジア人選手による得点であった。


●1967

・AFCの影響はクラブサッカー界にも広がり、第1回アジアクラブ
 選手権決勝大会がタイのバンコクで開催された。


●1970

・トーナメント大会で引き分けが起こった場合、PK戦で勝敗を決める
 という方式が世界的に導入され、チームの戦略に関して大きな影響を
 与えることとなった。

・AFCは、この年サッカーの発展に不可欠なスポーツ医学に注目し、
 初のアジア・スポーツ医学研修をタイのバンコクで行った。


●1978

・この年、1人のアジア系スコットランド人選手が引退した。

 インド人の母を持つPaul Wilsonは、グラスゴーセルティックで
 ラストゲームを行った。1970年にデビューし、78年に引退
 するまでに、214試合をセルティックで戦い、52得点を挙げた。
 また、スコットランド代表としても、1975年にスペイン相手に
 1得点を挙げている。

 彼はレンジャーズ相手にコンスタントに得点するのが得意な選手
 であった。


●1980

・欧州では他のアジア人選手が脚光をあびた。韓国のCha Bum-kun
 (1953年5月22日生)は、ドイツのEintracht Frankfurt
 に所属し、欧州で権威ある大会、UEFAカップ優勝トロフィーを
 得ることが出来た初のアジア人選手である。


●1985

・アジア地域で、初の(FIFAによる)世界大会が行われたのは、
 この年中国で行われた、FIFA U17選手権である。


●1986

・AFCはALFCを吸収し、アジアの女子サッカー界に新たなる
 扉を開いた。AFC女子サッカー選手権がAFC管轄の下で初めて
 行われ、中国が初代チャンピオンとなった。
 
 これ以降、中国女子サッカーのタイトル独占時代が続いていく
 こととなる。


●1988

・韓国のCha Bum-kunが再度UEFAカップタイトルを手に入れた。
 このとき所属したチームは、ドイツのBeyer Leverkusenである。
 
 彼はブンデス・リーガで308試合に出場し、98得点を挙げた。
 今日まで、欧州における最も成功したアジア人選手である。
  

●1989

・AFCは、第1回国際コーチ研修を、アジア各国の代表・クラブ
 の監督に対して行い、サッカーの発展を促進させるという役割を
 より強めた。
 


●1994

・タイのクラブ、タイ・ファーマーズ・バンクが、カタールの
 アル・アラビを決勝戦で破り、初のアジアクラブ選手権連覇
 を成し遂げた。


・ザイード・オワイランが初めて公式に行われたAFC年間
 最優秀選手賞を獲得し、アジアのベスト選手という栄光を
 受けた。
 
 オワイランは94年米国W杯でベルギー相手に素晴らしい
 ゴールを生み出し、1−0でサウジの勝利に貢献した選
 手として記憶されており、過去に(サウジがW杯で?)得点
 した7人の選手の一人である。
 

●1996

・1996年6月1日、アジアは世界のサッカー界の地図に
 その存在を確立した。FIFAHA,2002年のW杯に、
 韓国と日本を開催国に決定した。

 W杯本大会がアジアで行われるのは、初めてのことであったが
 同時にまた2カ国で大会が共催されるのも初めての決定だった。


・サウジアラビアが、アジアカップ決勝で開催国のUAEを
 PK戦の末破り、3回目のアジア制覇となった。


●1997

・アジアクラブ選手権決勝で、韓国の浦項スティーラーズが、
 中国の大連(中国)を破り2連覇を達成。


●1998

・中田英寿がAFC年間最優秀選手を2年連続受賞。

・98年W杯フランス大会グループリーグで、イランは
 米国相手にMehdi Mahdavikiaの決勝点により2−1で
 勝利した。 
 
 試合には影響がなかったが、この2ヶ国は政治的な対立が
 あったため、世界中で様々な予想が飛び交った。

 イランのこの勝利は、アジアの大きな後押しとなり、また
 Mahdavikiaの欧州チームへの移籍の布石ともなった。


●1999

・イランがマレーシアで行われた第1回アジアフットサル選手権
 決勝で、韓国を9−0で破り優勝。参加は9ヶ国であった。


●2000

・AFC会長Sultan Ahmad Shah氏のもと、マレーシアのKLに
 アジアサッカーの本拠地であるAFCハウス完成。


●2001

・AFC女子サッカー選手権で北朝鮮が優勝し、中国の
 7連覇でストップさせる。


●2002

・韓国の水原三星ブルーウィングスが、アジアクラブ選手権で
 2連覇達成。2連覇は、韓国のチームとして2チーム目となった。

 この試合の決勝戦は同じKリーグのライバル、安養LGチータス
 だったが、同点となったためPK戦にもつれ込んだ。

・Feyenoord所属の日本の小野伸二が、韓国のCha Bum-kun以来の
 UEFAカップ優勝トロフィーを手にしたアジア人選手となる。


・アジアで初のサッカー最大の祭典、W杯が行われた。
 開催国の韓国・日本と予選を勝ち抜いたサウジアラビアと中国を
 含む32カ国による大会となり、これまでのW杯史上最大で、
 またベストの大会と言われた。財政面でも最大の大会でもある。

・アジアチームがこの大会で躍進し、これまでで最高の結果を
 残した。韓国はプライドを保ち、地元でポーランド、ポルトガル、
 イタリア、スペインを破り、準決勝に進出。日本は初のベスト16
 に進出した。

 
・サッカーが、政治的な断絶を打ち破る手助けを行ったのも、
 この年だ。韓国対北朝鮮の試合が8月8日韓国で行われ、0−0
 という結果となった。

 また、イラン対イラクが8月18日にテヘランで行われ、1−0
 でイラクが勝利した。


・アジアのクラブ大会が再編となり、AFCチャンピオンズリーグが
 スタート。これは、それまで行われていたアジアクラブ選手権、アジア・
 カップ・ウィナーズ・カップ及びアジア・スーパーカップに
 変わる新たな大会であった。


・長い間紛争状態だったアフガニスタンが国際大会に戻ってきた。
 9月28日、韓国の釜山で行われた第14回アジア大会の
 グループEの初戦の相手は、イランだった。


・小野伸二が、AFC年間最優秀選手賞を受賞。世界のサッカー界での
 日本サッカーの躍進を見せる受賞となった。



●2003

・UAEのAl-Ainが決勝戦で、タイのBECテロサーサナを
 合計2−1で破りAFCチャンピオンズリーグの初代王者に。


・1月、AFC会長のMohamed Bin Hammam氏が、アジア全域にわたった
 サッカー発展を目指した野心的なプログラム「ビジョン・アジア」を
 発表。


・イランが、AFCフットサル選手権で5連覇達成。イランの有名な
 サッカーを取り上げたストリート・アカデミーの効果が、チームの
 優勝に貢献したといえる。この大会は、99年に参加した9カ国を
 含む20カ国が参加し、アジアのスポーツ人気を示すこととなった。


●2004

・5月8日、KLにあるAFCハウスにおいて創立50周年を祝う式典
 が行われる(予定)




http://www.the-afc.com/english/goldenjubilee/default.asp?mAction=new&where=goldenjubilee&mnaction=history

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実は、この本に、結構詳しくAFCの歴史なんかが書いてあったり
するのですが、激高なのであんまり世の中に浸透していないと
思うわけであります。

(中国・イスラエル問題とかそのへんはナカナカ面白いです。
 AFCに関しては、4,5ページしかないけど)


ただ、こーみると、やっぱし韓国はアジアですげーなー、と思いまして、
日本はまだ(AFCから見れば)若造なんだなー・・・つー印象が
あります。


あと、フィリピンがなかったら、アジアのサッカーはもーちょっと
遅れていたのか?と思わせる、初期の活躍ッぷりであります。

さすがだ。


ちゅーわけで、50歳おめでとー、AFC。
これからもヨロ。


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