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すまんかった、サンミゲル -フィリピン - 2002年09月07日(土)

時間がないので、取り急ぎ。

フィリピンサッカーの歴史のページがあったので、
全文適当訳で行きました。

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■フィリピンサッカーの歴史


 この地でのサッカーというものは、歴史的に見て
1930年代から40年代の初めかけての頃、既にそのピ
ークに達してしまったものです。

1900年代、香港のイギリス水兵らによって試合が行
われて以降、外国人によって定期的に試合が行われ
ていました。



英国人および中国人によって行われた試合の影は、
マニラおよび他の南部地方の都市で感じとることが
できますが、スペイン人によって行われたサッカー
の影響は、フィリピン全土にまたがって見ることが
できます。

戦前を見ると、バスケットの人気がサッカーに追い
つき始めましたが、それでも好カードの試合ともなる
と、26,000人もの観客を集めました。


欧州のチームは度々フィリピン遠征に訪れ、Turba Salvaje、
YCO Athletic Club、Nomads、Casinoといった地方の
チーム、あるいはSanto Tomas大学といった学生の
チームと対戦し、スタジアムを満員にしたものでした。



サッカーが戦後の混乱期から回復し始めた頃になって
も、スペインの影響は、試合の中で依然色濃く残ってい
ました。

伝統的にSan MiguelとElizaldeのようなスペイン系の
企業はスポンサーを続け、サッカーの発展のために熱心
に試合を開催し、大会を組織運営していたのです。



50年代になるとフィリピンのサッカーは、大学のトップ
グループのチームの試合を通して、再び元気を取り戻し
てきました。

例えばLetran大学、Santo Tomas大学、San Beda大学、
Ateneo大学、La Salle大学, San Carlos大学, Silliman大学,
Visayas大学などが例にあげられます。



サンミゲル社はフィリピンサッカー協会を通して、スポーツ
の発展と楽しさを提供する為に、諸外国のノウハウを輸入す
べきとだという決断を行いました。

よってSorianoグループは60年代初め、英国人コーチ
のアラン・ロジャーズとブライアン・カバを招聘し、
フィリピンの審判・コーチ・選手のトレーニングを
行い、その資金提供を行いました。

招聘された英国人の2人は、選手たちがサッカーの設備
不足によってプレーできないことがないようにと、バス
ケット・コートのフィールドで行われる、1チーム5人
の選手でプレイ可能な”5-Aサイド”のサッカーを練習に
導入しました。

彼らの役目は後に、フィリピン代表やユース代表の指導者、
ダニー・マクラーレンとグレアム・アダムスという2人の
コーチに引き継がれていきます。



1961年、サンミゲルはフィリピンサッカー協会を通して、
4人のスペイン医学生をフィリピンへ招待しました。彼ら
はとてもサッカー技術に優れた学生だったのです。

Felipe Monserrat(フィリピンサッカー協会会長)は、彼ら
4人が試合で魅力あるプレイを披露し、そのプレイや地方
のサッカー選手の発展に結びつくよう期待しました。


このカルテットは、Francisco Escarte、 Enrique dela Mata
(一年間滞在し、帰国)、Claudio Sanchez、 Juan Cutillas Espana
という顔ぶれでした。後にAteneo大学、La Salle大学に
入学した英国人Peter Leaverがこのグループに入ります。



1966年、第8回アジアユース大会の決勝は、サンミゲル社
によるこれまでの努力、ならびにエルサルデ社の宣伝活動
のかいもあり、20,000人もの観客がRizal Football Stadium
に集まりました。



それまでの間に、サンミゲル社によって支援を受けたJuan Cutillas
は1965年に一時スペインへ帰国し、その後1968年、医師と
なってフィリピンに戻って着ました。

彼はマドリッドで体育卒業証書、スペイン・サッカー指導
ライセンス、医学の博士号といった多くの資格を得て、
フィリピンサッカー界への復帰も始めたのです。Cutillasは
文字通り、フィリピンにサッカー「津波」となって押し寄せ
ました。

このかいもあって、サッカーは再び観客を集めるようになりました。



1968年、フィリピン遠征に来たプロチーム、Dallas Tornadoes
に対し、Juan Cutillasのフィリピン選抜チームは2-1の勝利
しました。

元アトレチコ・マドリッドのMFが監督を務めるSan Beda Red Lions
(大学チーム)は、1968年以来フィリピンのNCAAで
3年連続優勝を成し遂げたということも、津波の影響でしょう。



その年以降、Cutillasはフィリピン代表監督に就任し、
他のスポーツではトレーナーに就任しました。彼が代表
チームを指導しなかったのは、Florentino Broceが代表
監督を行った73年と74年だけでした。

CutillasはPFAサッカートーナメントにサンミゲルチーム
を率いて7回出場し、5回の優勝を勝ち取っています。



1971年、Cutillasは4人の強力なスペイン人選手、ならび
に1人の中国人選手を選抜しました。フィリピン代表チーム
を強化するために伝統を破ったのです。

有名な大会に乗り込むべきだという主張が通り、Cutillasの
代表チームが再び動きはじめました。


フィリピン代表チームは、ムルデカ大会、Pesta Sukan大会、
インドネシア記念カップ、インドネシア・プレジテント・パーク
大会のような有名な大会に参加し、タイやシンガポールそして
強豪の韓国に迫る成績を残しました。


このことから、再びフィリピンでのサッカー人気が復活して
きたのです。



ここまでが、フィリピンからサッカーが消えていくまでの歴史です。

スペイン人達の Lozano、Cuenca、Gutierrez、Roxaが資金不足
からサッカー界を去ると、バスケットボール人気が押しよせ、
人々はそちらに目を向けるようになりました。

バスケットボールは1974年にプロリーグ発足が決定的なものと
なり、サッカーは隅へと追いやられてしまったのです。



1975年以来注目をあびる事がなくなったサッカーでしたが、
PFAは希望を失わずにの復活への努力をしました。協会の
フェルナンド・アルバレスは、ドイツ大使館へ支援を求めに
行ったのです。



ドイツ政府当局は、フィリピンへ一流選手を派遣する代わりに、
Bernhard Zgoll氏という、国際的に有名なスポーツ専門家であり、
特にサッカーに関して権威を持つ医師を派遣しました。


Zgollは、地方のサッカー関係者を訪ねたり、島々のサッカー事情
を調査したりして、それを元に注意深く分析したのです。


Zgollの研究は、MYSD大臣Gilberto Duavitとマルコス大統領との
会合中に提出され、直ちに大統領に認められたのです。


この突破口から政府の協力を取り付けたことにより、
フィリピン国技としてサッカーは現在発展中なのです。

http://www.skyinet.net/~giboy/history.html

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ちなみに、Juan Cutillasはつい最近までフィリピンの
代表監督をやってました(今は日本人でありますが)。

ちなみにこの人↓




うーむ、とても興味深い歴史だ。

昔は人気もあったとか、スペイン人とか英国人が
来たとか、欧州のチームが来たとか。


フィリピン、バスケがなかったら、恐ろしいサッカー
大国になっていたかもしれん・・。あなどれんな。

マニラ・ユナイテッドとかレアル・ミンダナオとか
実はパラレルワールドで存在するかもしれんな。
ないと思うけど。


つーか、サンミゲル、すまんかった。

ちゃんとスポンサードしてたんだなぁ。
してないと思って、飲まんかった。
これから飲むようにする。


...



 

 

 

 

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