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小林の家に行ってきた - 2003年02月15日(土)

風邪の具合がだいぶ良くなったので、帰国したらまずしようと思っていた小林の家に弔問に訪れると言うのを、今日やった。昼過ぎに原田にメールを打って、夕方に埼玉の小林の家の最寄駅で待ち合わせすることにした。

午後2時半、病み上がりで若干フラフラしながら家を出た。何しろ埼玉なんで、かなり時間がかかる。

小林の家の最寄駅には、約束の時間を(時刻表によると)1分遅れて到着した。改札口の脇に寄り掛かっている原田を見つけ、精算を済ませて改札を出ると、小林のお父さんがご丁寧に迎えに来てくれている。私は挨拶をして、お父さんの運転する車で、原田と小林邸に向った。

小林の家に着くと、お母さんと妹さんに出迎えていただき、早速お宅にお邪魔。居間に通され、右を見ると、すぐに小林の遺影とお骨を納めた骨壷が目に入った。

小林の遺影を見て、私はパキスタン出張中に貰った同期の柳澤のメールを思い出した。遺影がいい笑顔で泣けてくると、奴らしくない言葉を綴っていた。だが、遺影を見ると確かにいい笑顔である。私は早速遺影の前に座り、線香をあげた。

手を合わせている間、私は小林に挨拶をして、暫くじっとしていたが、目を開けて改めて小林の遺影を見て、そして骨壷を見つめた。ああ、小さくなっちまった、と思った。だが、涙は流れなかった。やっぱり、まだ信じられない。

その後、ご家族と話したり、小林の部屋をあさったりしたのだが、原田に、「こんな風に色々見られて、あいつ嫌がってるだろうな」と話したりしていた。小林自慢のvaioには、小林が積み重ねたホームページの全てが入っていたが、どれを見ても今でも笑えるものばかりで、しかも私の脳裏に焼きついているものばかりだった。何しろ私は彼の大ファンだったのである。また、あまりの膨大なファイル量を目の前にして、これを大編集しようとしている原田に、「これ整理するの大変だぜ」と声をかけたりした。原田は、「まあ少しずつやりますよ。」と答える。振り向くと、原田は小林のネームボードを見ている。ああ、こんなところを小林が見たら、あいつは本気で怒るかも知れない。何しろ、先輩が小林のパソコンを除きながら笑っていて、原田は小林のネームボードを楽しそうに眺めている。私だったらやめてくれと叫ぶところである。

ご両親が寿司を取ってくれた。いや恐縮もいい所なのだが、どうぞ遠慮せずと言ってくれる。そして寿司をつつきながらご家族と話をしたりする。何とお父さんと私は殆ど同業と言うことで、二人にしか分からない会話をしたりしてしまったが、やはり小林の話になるのは当然である。

ご家族は、小林が大学でこんなに人気者で、こんなに愛されているとは今まで知らなかったようである。小林の性格から言って、こんなことを家の人に話すと言うのは、無かったようである。だが、亡くなって葬儀を執り行ったら、日本全国から友人が集まり、弔問に訪れた人は400人に上ると言うのに、恐らくご家族は驚かれたことであろう。また、弔電の数も尋常でなく、届けに来たNTTの人も、「こんなに多いことはありません」と言っていたそうである。

その後、また色々話をして、結局午後9時に小林邸を出た。お父さんにまた駅まで送っていただき、49日にお邪魔する旨伝えて、駅前でお父さんにお礼を言って、私は原田と駅舎に入った。ここで原田ともう一杯、と本当は行きたかったが、さすがに病み上がりで体調も万全で無いので、そのまま帰ることにした。

電車を待つ間、私は、小林の一番の親友である原田に、今のことを聞いたが、これはここには書かない。言葉少なに彼と話をして、電車に乗って、そして原田の乗換駅で原田と別れた。今度会うときは、小林の49日である。

原田と別れて、私は一人になった。一人になって、改めて小林の死を思い起こした。そして、伝え聞いた小林の葬儀の様子をそれに重ね合わせてみた。あいつ、本当にもういないのかな。

埼京線(酒が回って眠ってしまった)に乗り換えて、新宿で山手線に乗り換えて、渋谷に向う。渋谷に向う途中、車内の様子を見回した。ああ、みんな生きているな、しかし、小林はもういないのかと思い、そして島の日記を思い出した。

お父さんは、葬儀の際、一番最後に「息子は25年しか生きられませんでしたが、悔いの無い人生でした」と言い切ったそうである。今日会った、とても優しいお父さんがそう言った姿を想像すると、いきなり涙が出てきた。やっぱり涙が出てきた。

涙は田園都市線に乗り換えた後も、何度も出てきた。


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