petit aqua vita
日頃のつぶやきやら、たまに小ネタやら…

2003年01月24日(金) 『last summer』(プロローグ)

この夏が、最後の夏になる。

感傷や…そういうロマンチックなものではなく、俺にとっては、それが現実だった。

多発性骨髄腫

そう医者から宣告されたのは、梅雨が明けた、夏の初めだった。


体調の悪さがいつまでも抜けなくて、注射の一本でも打って何とかしようと病院に行ったのが、去年の冬。
しかし一向に良くなる気配もなく、検査することを勧められ、渋々承諾したのが、こいのぼりが空を泳いでた…確か、4月ごろ。
検査の結果ははっきりせず、体のだるさは以前よりひどくなり、大学病院に紹介状を持たされて、車検の時の車のような扱いで、体を調べ尽くされ……その結果。
夏、俺は医者から自分の病気について告知された。

血液の癌とかで、病気の進行は、若いほど早いらしい。
様々な治療法はあるらしいが、それらはもう、かすかな効果しか得られないという。治していくはしから、別のところで病が進行していくのだから、どうしようもない、というのが、医者の本音だろう。決して、彼らが口にすることはなかったけれど。

そして告げられた俺の時間は……もって半年。
今年の冬までが、タイムリミットだという。

来年のおせちや雑煮はもう食えないんだなぁ……なんて、医者を前にしながら思いついたのは、そんなくだらない事だったが。
後見人である祖父に病気の事を告げ、ついでのようにそれを言ったら、このクソ暑いのに雑煮をしこたま食わされた。


「どこか行きたいところはないのか」

涼しい風が通る和室で祖父と俺は碁盤をはさみ、無言のまま対局していたが、その沈黙を破ったのは、祖父のほうだった。

「アメリカ…ニューヨークに行ってみたい。見たいものがあるんだ」

テロによって、一度は死にかけた街。
しかし今力強く生きている街。
以前からのNBAへの憧れもあって、いつかは行きたいと願っていた街だった。

それを聞いた祖父は、ゆっくりと和服の袖に手を入れ、腕を組んだまま動かなくなった。
中学の頃両親を亡くした俺と、俺の母親が生まれた直後に妻――俺にとっては祖母だ――を亡くした祖父と。他に親戚もない俺たちは、寂しい者同士、肩を寄せ合うように生きてきた。
そしてまた、俺は祖父をひとりにしようとしている。
俺は碁盤に黒石を置いた。そして、

「ごめんな」

下を向いたまま、呟いた。


祖父はゆっくりと組んでいた腕をほどいた。
「アメリカに死にに行く訳ではないだろう。お前が謝ることは何もない」
ぱちり、と、碁盤に白石を指す。
「向こうに知人がいる。連絡はしておくから、準備をしておけ」
俺は慌てて祖父を見上げた。

「この対局は、打ち掛けにしておく」

祖父は、ふわりと笑った。続きは帰ってきてからだ、と。
過去、最強の棋士として名を馳せていた祖父は、決して表情を崩す事などなかったという。
そんな祖父のほほ笑みを知るのは、孫である俺だけの特権だった。

「だから必ず帰って来い。――宏明」


返事は、声にならなかった。



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平 知嗣 [HOMEPAGE]

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