エンターテイメント日誌

2004年03月20日(土) 押井守論とイノセンス解題

押井守という映画作家が名作「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の時代から一貫して追及してきたのは<我々はどこから来て、どこへ往くのか、そもそも人間の存在とは何なのか?>という命題である。言い換えるならばアイデンティティ(自己同一性)を探し求め、果てることのない旅をし続けているのである。それは「イノセンス」まで全く変わることはなかった。

押井は宮崎駿の「カリオストロの城」の後を受けてルパン三世の劇場映画第三作の監督に決まっていた。しかし押井版ルパンはその余りにも破天荒なプロットに製作者たちが仰天し、結局お蔵入りになってしまった。押井はインタビューでその件に関しこう語っている。

「ルパンには『虚構』を盗ませようと発想したんです。最終的にはルパンなんてどこにもいなかったという話。全部が虚構で全部がどんでん返し。確かな物は何もないという話になるはずだった」 (←クリックすれば出典に跳ぶ)

「イノセンス」という作品を僕なりに読解するとこうなる。無論映画の受け取り方というのは観た人の数だけあって当然なのであって、以下は一つの解釈に過ぎない。

この作品世界には対極的な二つの存在がある。まず匣(はこ)としての<義体>(ぎたい)であり、<人形>という呼び方をされたりもする。魂のない器(うつわ)である。もう一方の極にあるのがゴースト(魂とか意識といった意味)だけの存在となり広大なネットの海に漂う少佐こと草薙素子(くさなぎもとこ)である。そして主人公のバトーは完全な人形にも、はたまたゴーストのみの存在にもなりきれず、その両者の狭間で彷徨い続けるというのが大まかな基本構造なのだ。彼が現在のどっちつかずの自分に執着する象徴として登場するのがバセットハウンド犬である。バトーという存在は自己を探し求め続ける人間そのものの暗喩でもあるだろう。だからこうしてみれば「イノセンス」はバトーと草薙素子の悲恋の物語でもあるのだ。愛していても肉体的には決して交わることの出来ない絶望的な哀しみ。映画のラスト・カットで人形を見つめるバトーの瞳には草薙素子の面影が浮かび上がっているに違いない。そして再びバトーは彷徨の旅に出る。「2501……。それ、いつか再会するときの合い言葉にしましょう。」という、はるか昔に聞いた素子の言葉を唯一の心の拠り所として。

主題歌「フォロー・ミー」の歌詞は奇跡のように映画の内容に寄り添っている。そしてそこに籠められた切実な想いが、聴く者の心を捕らえて放さない。これを選択した鈴木プロデューサーの判断は正しかった。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]