東京の片隅から
目次きのうあした


2005年08月15日(月) 60年

私のいた学校には中学3年生の時の夏休みの宿題で「戦争体験の聞き書きをする」という課題があった。(こういうことを書くと学校名がわかる人もいるかと思うが、構わない)私は当時子どもだった叔父に話を聞いたのだが、いかんせん子どもだからなかなか記憶が不確かなこととかもあった。そのときに、「父方母方どっちでもいいから祖父が生きていてくれたらな」と思ったのだった。
我が家は父方母方ともあまり丈夫でない家系らしく、戦争に行った人が少ない。
父方の祖父のことは一緒に住んでいたくせに良く知らない。物心ついたときには既に寝たり起きたりで、倒れた後遺症で言葉が不明瞭だったので、あまりコミュニケーションが取れなかった。戦争前は煎餅屋をしていたのだが、米が手に入らなくなって店を畳み徴用され、終戦直後は担ぎ屋のような仕事をしていたらしい。父親に言わせると「あくどかった」そうなのだが、あの時代を生きた人なら多かれ少なかれみんなそんな風であったろうと思う。
母方の祖父のこともあまりよく知らない。実家は本郷で婿養子に来たこと、実家の家業が提灯に字を書くことで浅草寺の大提灯の字を書いたらしいということ(法螺かもしれない)、そんなことを周囲から聞くだけだ。亡くなってしばらくしたあと、実家の遺品を整理していて写真やら手帳やらを母が引き取った。私も虫干しの際に見せて貰ったのだが、生徒手帳のような胸ポケットサイズの小さな手帳に戦時中の日記のようなものが書かれていた。
「3/1X 家に戻る 全部焼けてしまったので敷地の四隅に杭を打つ」と書かれ、手書きの図面がタテ○尺○寸、ヨコ○尺○寸、と書かれている。文面から察すると、自警団の隊長をさせられていたらしい。あちこちかり出されていたようだ。事実のみ淡々と書いてある手帳に偉い人の掲げたお題目を全く信じていないのが滲み出ていて、興味深かった。

60年って一体どのくらいの重みがあるのだろう。でも、10年前よりは新聞やテレビが客観的に分析しようとしている気はする。10年前はまだ感傷的だった。


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