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夢の図書館新館

お天気猫や

-- 2001年06月29日(金) --

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『永遠の仔』

☆私たちが、永遠に受容されるということについて。

去年の今頃、ドラマで見ていた。 途中から見始めたので、細部が分からないままで、 図書館に借りに行っては見たが、 ずっと、ずっと、先まで、予約で一杯だった。 新聞や雑誌で見かける書評の印象では、 「癒される魂」「魂の回復」「救済」の物語だと思っていたが、 ドラマで見る限り、ただただ、重くのしかかる、 数々の心の傷に、見ている私も気が滅入ったりもした。 最終回まで見て、確かに、 「魂の救い」というもののドラマだということは分かったが、 ドラマ自体も、面白くは見たが、 釈然としない思いもあった。

そして、今更だが、 やっと、上下2冊、共に分厚い原作を読み上げた。 何度か、読み返し、特にラストを丹念に読み返し、 釈然としなかった思いが解消された。 当然であるが、ドラマはダイジェスト版として、 忠実に、小説の輪郭をなぞってはいたが、 傷つき、救いを求める人々の心の内のすべてを 描き切ることができなかったのだ。 それは、きっと、活字でこそ、 濃密に語り尽くすことができるのだろう。

救いというと、 私は、亡くなった祖母の、 手のひらのぬくもりを思い出す。 祖母との思い出のすべてが、 感受性が強すぎ、かといって、 自分の思いをさらけ出すこともできなかった、 子ども時代の私を 慈しみ、包んでくれたぬくもりである。 子どもの頃、 ほんとうにつまらないことで、 意地を張ってしまい、母と口げんかをしてしまった。 悔しかったのと、どうして、こんなことで、 したくもないけんかをしたのかと、 情けない思いに涙をためていた。 もちろん、誰にも涙を見られないように。 気にしてないそぶりをする。 その時、そっと、後ろから、 祖母が私の頭を包み込むように、 手のひらをのせた。 それだけだった。 祖母も、何もいわなかったし、 私も、何もいわなかった。 ただ、あっと思うまもなく、涙があふれた。 モノクロームの写真のように、 色もなければ、音もない思い出に、 温もりだけがあふれ、 今でもあのときの安堵感は、鮮明である。

あのとき、 子どもながらに、 人には、ありのままの自分のままで、 そっくりそのまま、受け入れられ、 許される場が必要なのだと、 もっと、要領を得ない言葉であったが、 心から、そう思った。 祖母は、いつでも、私を私のまま、 私の情けない思いも、頼りない思いも、 激しい思いも、寂しさも、 どんな思いでも、受け入れてくれる、 「場」だった。 だから、祖母を亡くした時の、喪失感は大きかった。 その時の私の年齢からも、 まさに、「子ども時代」が終わったのだと痛感した。

『ネバーランド』(恩田陸 / 集英社)を読んだ時も思ったが、 悲しみも、汚れも、苦しみも、 あらゆるネガティブな感情のすべてを、 誰しも、受容して欲しいのだ。 誰かに、心の奥底に、しまい込んだ秘密ごと、 そのまんまの自分を丸ごと、受け止めて欲しいのだと。 日々、負うささやかなかき傷でさえ、 私たちの歩みを止めてしまうことはたやすい。

『永遠の仔』で描かれる悲しみはあまりにも深い。 「わかるよ」と言ってしまえば、嘘になってしまうほど、 それは、重苦しい悲しみだ。

けれど、人は大なり小なり、いつも、 救いを求めているのだと思う。 「救い」という言葉は、大げさかもしれないが、 誰だって、自分を受け止めて欲しい。

私たちは、今や、あまりにも不器用で、 自分の、ささやかな悲しみを語ることすら難しい。 あるいは、日々に押し流されていき、 そういう気持ちに気づくことすら、困難かもしれない。

それでも。 いや、だからこそ。 『永遠の仔』を読み終わり、 「誰かから受け入れられ、 まるごとの自分を肯定されることが大切なのだ」と、 いろいろな言葉で、そう考え、 つたない言葉で、こう表現することしかできない。(シィアル)


『永遠の仔』 著者:天童荒太 / 出版社: 幻冬舎

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