| 2006年06月08日(木) |
そしりを受けないものはない |
法句経(法華経ではない)というお経がある。 上座部仏教の経典で、仏教の論語のようなものである。 東京にいた頃、仏教書を読んでみたいと思い、古書街を探し回って見つけたのが、その『法句経(友松圓諦師訳)』だった。
このお経、例えば般若心経のように空の理論を展開しているわけではない。 例えば観音経のように、御利益を羅列しているわけではない。 では何を書いているのかというと、人として生きる道を丁寧に説いているのだ。
例えば、 「『彼は私を罵った。私をなぐり、私を敗北させ、私から掠めたのだ』こうした考えに執着する人には、そのうらみは息(やす)むことがない」(友松圓諦師、現代語訳) という句がある。 その通りである。 では、どうすればうらみが消えるのかというと、 「『彼は私を罵った。私をなぐり、私を敗北させ、私から掠めたのだ』こうした考えに執着しない人にこそ、そのうらみは消え失せる」のだ。 実にわかりやすい。 つまり、根に持つなということである。 しかし、頭ではわかっていても、心のほうが素直に言うことを聞いてくれないから困るのだ。 それを解決するためにいろいろと工夫・実践した結果が、「すべてを空と見よ」とした般若心経であり、「一心に観音を念じよ。きっと救われる」という観音経なのである。
あっ、今日はそんなことを書くんじゃなかった。 今日久しぶりに読んだその法句経に、興味深いことが書いてあったのだ。 「人は黙って座っているものをそしる。多く語るものをそしる。ほんの少し語るものでさえそしる。この世の中にそしりを受けないものはない」という言葉である。
小学生の頃のぼくは、実にしゃべり好きな人間だった。 よく「口から先に生まれてきた」などというが、そういうたぐいの人間だったのだ。 そのしゃべりがいつもギャグを含んでいたため、クラスではわりと人気のあったほうである。 ところが、それをよく思わない人間もいた。 彼らは、ぼくを見るたびに、いつも罵声を浴びせていたものだ。 ぼくも負けじと応戦していた。 結局、最後の最後まで、ぼくと彼らは打ち解けることはなかった。 中学卒業以来、彼らと会うことはないが、もし会うことがあったとしても、話をすることはないだろう。 なぜなら、いまだお互いに根を持っているだろうからだ。
それから三十数年後、つまり今だが、ぼくは余計なことはしゃべらない人間になった。 すると今度は、無口だの、暗いだの言ってそしられるようになってしまった。
「しゃべればしゃべったで敵が出来る。しゃべらなければしゃべらなかったで溝が出来る。いったい、どうしろと言うんだ?」 というのが、最近の悩みであった。 だが、今日その言葉を読んで、思わず「なるほど!」膝を打ったのだった。 つまり、「そういう声に反発するのをやめて、執着しないことに努めよ」ということなのだろう。 たったそれだけのことで、悩みというのは消えていくものなのだ。 なぜかというと、実のないこと、つまり『空』だからだ。 しかし、たったそれだけのことが難しい。 また新たな悩みになりそうである。
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