「ふと我に戻った時、すべてのことがどうでもいいことだということがわかった。 意味があると思われることは、実はどうでもいいことである。 それなのに、人はどうでもいいことに意味を見つけようとする。 ところが、突き詰めれば突き詰めるだけ、わけがわからなくなって、結局は何も出てこない。 どうでもいいことだから出てこないのだ。 つまり、 『気にするな。気にするな。何も気にするな。気にしないということさえ気にするな。そうすれば心は乱れない』 ということですたい。」(『般若心経』しろげしんた訳)
漢文で書かれているから、何かご大層なものと勘違いしてしまうが、実はこのお経はこういうことを言っているのだ。
ぼくが初めて般若心経に触れたのは、高校3年の時だった。 ぼくたちの高校では、放課後のクラブ活動の他に、全員参加のクラブ活動というものがあった。 水曜日の6時間目をその時間に当てていた。 どんなクラブがあったのかは忘れたが、実に多彩な内容だったのを覚えている。 なぜ多彩な内容になったのかと言えば、先生たちが好き勝手に自分の趣味の教室を開いたからだ。 要は先生たちの道楽に生徒が付き合わされていたというわけだ。
その中に、「こんなクラブ有りか」というクラブがあった。 『仏教クラブ』である。 仏教好きの先生が開いていたクラブで、岩波文庫の『般若心経』という本をテキストにして、先生が講釈をたれるクラブだった。 内容が内容だけに、参加者はそれほど多くなかった。 一度そのクラブに属している人に、そのテキストを見せてもらったことがある。 初めて見る『般若心経』だった。
ある日、本屋で『般若心経入門』なる本を見つけ、何の気なしにページをめくっていくと、いろいろといいことが書いてあった。 当時ぼくは、『人生の一冊の本』というのを探していた。 本を読みながら「もしかしてこの本がそうなのかも」と思い、買って帰った。 その後、ことあるたびにこの本を開いていた。
生物の時間に、この本を読んでいるのを先生に見つかったことがある。 しかし、本のタイトルを見て、「そうやなあ。人生こういうものも必要やろ」と言って、お咎めを受けなかった。 これもお経の功徳であろう。
真剣に『般若心経』に取り組んだのは、30代になってからだった。 この頃ぼくは禅に凝っていた。 『悟り』なるものを開いてやろうじゃないか、と思っていたのだ。 『悟り』への一助になればと思い、『般若心経』の勉強も始めた。 まず高校時代に買った本を広げてみたのだが、その時初めてその本が道徳的なことに重点を置き、教義に関してはあまり触れてないことに気がついた。 そこで、『般若心経』に関する本を本屋で買い漁り、読みまくった。 また、心経本文を読んで思索するようなこともやっていた。 「『空』とは何? 『空』『空』『空』・・・」 自分では気がつかなかったが、けっこう深くハマっていたようだ。 ある時、街を歩いていると、知らない人から「あなた、何か哲学をやっているでしょ?」と声をかけられたことがある。 別に哲学などやっているとは思ってなかったので、素直に「いいえ、何もやっていませんけど」と答えると、「そんなことはない。目を見ればわかるんよ」と言われた。 また、取引先の人からも同じようなことを言われたこともある。
そこまでやって、何か得るものはあったのか。 何もなかった。 心は乱れるは、目は悪くなるはで、逆にさんざんな目にあってしまった。 「このままだとおかしくなってしまう」と思ったぼくは、禅から離れ、そういう書物から遠ざかった。 それからしばらくしてから、心の乱れはなくなった。
冒頭の訳は、その時の心境である。 つまり、突き詰めれば突き詰めるだけわけがわからなくなって、こういう訳になったというわけだ。
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