「しんたさん、いくつなんですか?」 若い人から、時々聞かれる。 以前は「チャゲアスや大竹しのぶと同い年」と言っていたのだが、最近はもっぱら「蓮池さんと同い年」と言っている。 「えーっ! 見えませんねえ。だって、顔が若いもん」 これはお世辞である。 いくら顔が若くたって、頭だけ見れば、実際の歳以上に見えるはずだ。
それはさておき、このサイトのタイトルや、日記に書いてあることを見れば、「この人、かなり歳を気にしているなあ」と思うかもしれない。 が、今までぼくは歳を気にしたことが、まったくない。 だから、お世辞とはいえ、若く見られるのだと勝手に思っている。 ぼくは、歳というものを、自分という活動の経過時間だと思っている。 生まれてから、ぼくはずっと自分をしている。 その意識の中で、45年がすぎただけのことだ。 その時その時、その場その場に、いつも自分がいる。 この先も、ぼくはずっと自分をしていくだけである。 言い換えれば、歳というのは、ぼくにとって、ただの飾りにすぎないのだ。 あくまでも主体は自分、飾りに振り回されるのは、まっぴらである。
ぼくは10代の頃、20歳になったら、自分の中で何かが変わると思っていた。 また、20歳になった日に、何かが変わったと思っていた。 だけど、何も変わらなかった。 19歳最後の時間に、ぼくはトイレの中にいた。 20歳最初の時間も、ぼくはトイレの中にいた。 20歳の変化をトイレの中で期待していたのだが、20歳の時間になったからといって、トイレの中の状況は何一つ変わらなかった。 ただそこには、日常が綿々と続いているだけで、そこには何も変わらない自分がいた。 それは、30歳になっても、40歳になっても同じことだった。 やっていることはいつも同じ。 目に触れるものを見、耳に触れることを聞き、肌に触れるものを感じ、心に触れることを思っているだけだ。 そこには確固たる自分が存在している。 そう、自分はいつも自分なのである。
ぼくは昔から、ポパイの『おれは、おれで、だからおれなのさ』というセリフが好きである。 天上天下唯我独尊の姿勢が実にいい。 この人も、おそらく歳を気にしてはいないだろう。 だから、ああいう爺臭い顔をしていても、オリーブを愛していけるのだろう。 願わくば、この先もぼくは歳を気にしない、歳に振り回されない人間でいたいものである。
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