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■ 面白い人の作り方。(読書編)
友人と本の感想談義になった。友人には、これといった本の感想というのがないらしく、本はおもしろいか、おもしろくないかに大別されるらしい。だから、本の内容をほりさげて、とか、この本の要点は、とかわからない、らしい。私も本なんて、面白くないか面白いかで良いじゃんと思っていた。けれど、書評なんかを読んでいると、やっぱり本には最低受け取らなければならない内容というのがあるようで。別にうけとったところで、その効果はこうだ、とかは言えないけれど、やっぱりせっかくもらえるもんはもらっといた方が、トクなのじゃないか、と。まあ、とにかく街で配られているティッシュくらいのオトクはかならずあるだろうと思っています。 ただ、私は昔からそういうことが苦手なのです。小・中学校の時の作文に読書感想文。本当に大嫌いでした。特に、学年が上がるにつれて、書く枚数が増える読書感想文は、地獄。作文と違って、あくまで本の感想として書かなきゃいけなかったし、かといって、感想なんて、面白くなかった面白かったのひとことにつきる私にとって、あるわけもなく。必然、原稿用紙には200ページの内容を2000文字で説明するということが繰り広げられます。けれど、それもなかなか辛いんですよね。だから、一度だけ適当に書いてやろうと思い、詩のようにパラパラと楽して書いた時があったんです。読んだ本はシートン動物記。読書感想文の出だしは、おそらく「アーイヤラップラップラップ」(これを改行して2行続ける)。しかし、予想に反してこの読書感想文は、市のコンクールに入賞。どういうことだ?といぶかしみました。同じようなことで、「ガラス」に関する作文を書いた時、私はガラスのない世界について、ふざけて書いてみせました。すると、これも入賞。なぜ、いつもより労力を使っていない作文がなぜこんなにも受けるのか?当時の私にはわけがわからなくなったものです。けれど、今、思えば、ちょっとわかるんです。どちらも結局、私が感じたことだけ書いてあったんですね。それがどんなことであれ、ひとつのことに対する感想をズラズラと自分の思うままにかいてみせた。着眼点をきっかけにどこまでほりさげられたか、そこに評価があったのだと思います。 最近、私は本を読んで感じることを少し立ち止まって考えてみることにしました。別にそれがどんなことだって良いんです。「これって女ったらしの話じゃん」と思ったら、女ったらしってなんだ?女と多くつきあうことで得られることは?とか、そう言う風にどんどんと考えます。たとえ、どんなにくだらなくても良いから、自分なりの考えの結果を得ることを大切にしています。実は、そういうことが読書感想文の材料であり、本から受け取る最低限のことへ繋がっているんだと思います。まだまだ私には本の内容を掘り下げてとか、要点とか、わかっていないけれど、そんなことの繰り返しで得られるものだと私は信じたい。 そういえば、冒頭の友人がこうも言っていました。「本を読んでいる人は、やっぱりおもしろい」。そうだね、おもしろいね、と私もそれには同意しました。本を読んでいる人は、確かに語彙が多くて話していても面白い。けれど、本当の意味でその人たちが面白いのは着眼点と思考なんだろうなあ、と私は思います。そのためには、本の冊数を多くするだけでなく、その内容を自分の観点で考えることがとても大切なのだと私は考えています。
2003年12月10日(水)
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