思考過多の記録
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2017年06月25日(日) ミッシングリンク

久々の更新である。
ここを更新する時は、大抵この話題と決まってしまっているのが情けない。



小林麻央さんが、壮絶な闘病生活の末に亡くなった。一昨日と昨日はそのニュースで持ち切りであった。夫である海老蔵が記者会見し、麻央さんの最期の言葉が
「愛してる」
だったというのが、また世間の涙を誘った。
できすぎた話だとも思ったが、実際にそういうこともあるのだろう。2人の関係性を象徴するような言葉であり、シーンである。確かに、その場にいたら泣いてしまいそうだ。というか、確実に泣くだろう。



そこで、改めて考えてみると、僕の場合、「愛してる」と最期に言ってくれる人がいない。最期どころか、今もいない。
逆に、僕が最期に「愛してる」という言葉を伝える相手もいない。
勿論、最期どころか、今もいない。
この状態は如何なものかと思ってしまう。
先日、僕の友人でライターの女性がブログに書いていた。
自分はずっと孤独を求めてきたのだと思っていた。でも、実は違ったと気付いた。自分は、パートナー=愛する人を求めていたのだ、と。自分の作品を誰よりも早く読んでくれて、応援してくれる人である。
しかし、パートナーがいたら、自分は執筆活動に専念できないだろう。それはそれで困ると、彼女は書いていた。



僕も実は同じようなものだなと思ったりもする。しかし、彼女はかつて同棲していた恋人がいた。その時の体験からそう考えたのだろう。
一方、僕は「男」として見られたことがない。電車やバスの座席で、寄り添っている恋人達や、手を繋いで町中を歩いているカップルを見ると、何故そういう相手が自分にはできなかったのか、そして今でもできないのか、本当に謎である。羨ましいとかいう以前に、本当に謎なのである。
僕には、恋愛というと辛い体験しかない。ある種のトラウマですらある。だから、僕は映画でもドラマでも、恋愛ものは見ないようにしている。主人公がだんだんそういう仲になっていって、結婚するような話ならなおさらだ。自分の傷に塩を塗り込まれるようで、見ていられないのである。



何故女性から「男」として見てもらえないのか。この謎を抱えたままで棺桶に入るのだろうか。
きっと、フェロモンとやらが出ていないのだと思う。雌を惹き付ける雄としての「匂い」。この雄から種をつけられたら、きっといい個体が産めるだろうと、雌が本能の嗅覚で捉える「匂い」である。
しかし、これもまた因果なことに、僕はそういう場面になると、突然フェロモンを発するらしいのだ。何かスイッチが入るのだと思う。その時の僕は完全に「男」になる。その落差は凄いものだ(そうである)。
とすると、この落差を埋めてくれる女性に出会えれば、きっと謎が解ける。そこに僕は「愛」を発見するだろう。家族愛や同胞愛、人間愛といったものではなく、男女の間の「愛」である。そこには当然性愛も含まれる。
性別を意識させない「人」である僕と、「男」である僕。それを繋ぐミッシングリンクのような女性こそ、僕を救う「愛」を持っている。
その人になら、僕は「愛してる」といって旅立つことができるのだろう。



そうはいいつつも、僕は自分の脚本に恋愛を描く。恋人達や夫婦を登場させる。登場人物達は愛を育んだり、そうかと思えば、愛を壊していったり、すれ違ったり、求め合ったり、誤解したり、幻想を見たり、真実の愛を探したりする。
全て他人事だから描写できるのである。
僕が「愛してる」と言い、向こうも「愛してる」と答えるその女性、ミッシングリンクのような存在。そんな人が本当にいるのか、まったく現実味がわかない。この人だと思っても、人違いだったことばかりだ。
まさに失われた存在。はじめからなかったのかも知れない、決して見つけることのできない存在。だから、ミッシングリンク。



結婚や子供を持つことは、とうの昔に諦めた。こんな不安定な身分だし、経済的にも目も当てられない状況だからだ。
しかし、彼女を持つ位は許されてもいいのではないかと思う。
僕は、孤独になりたいとも、1人でいいとも思ったことはないし、誰かに言ったこともない。芝居と両立できないとも思っていない。
謎さえ解ければ。
ミッシングリンクが見つかれば。
その時、僕は愛する人の前で、性別のない「人」を脱ぎ捨て、1人の「男」になる。



「私はここよ」
その声が聞こえれば…


hajime |MAILHomePage

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