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いぬぶし秀一の激辛活動日誌
by いぬぶし秀一
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■西野善雄・前区長叙勲祝賀会
 今日はお昼から、品川駅前の高級ホテルで「西野善雄さんの叙勲をお祝いする会」が行われた。品川(実際には港区)でしか「出来ない」のは、実に残念だが、大田区には所謂都市ホテルがない。国際空港を擁しながら、都市ホテルがない「国際都市(大田区のキャッチ)」というのは、どうだろうか。羽田空港跡地には、都市ホテルの計画もあるようだが、空港は「区民」とは、若干の物理的、精神的距離がある。蒲田や大森に、是非とも都市ホテルを作って欲しいものだ。誰か、いないのかい!

 さて、西野さんとは、平成11年の初当選の時以来、区長と「たてつく議員」をいう関係でお付き合いをしてきた。平成15年の区長選挙では、「お役人」が作ったことがバレバレの選挙用ビラを全面的に改修したのは、実は私だった。すでに区長の任期が選挙時には切れていたため、「大田区体育協会」の名刺でまわっていたのを知り、似顔絵を作り、可愛らしい名刺を作ったのも私だ。

 普段、「区長与党」を標榜している区議会議員たちは「応援したふり」をするが、実は自分の選挙で手いっぱなのだろう。さらに、ご縁を頂いたのが、平成19年の区長選挙だ。ご自身は引退を表明され、後任に助役を指名した。

 ところが、引退の表明が選挙2ケ月前と出遅れたこともあり、「区長与党」である自民、公明は、自民党都議会議員だった現区長松原忠義氏を推薦してしまったのだ。

 現職区長の後継指名を受ければ普通は、当選確実なのだが、後継指名候補となった助役さんは、このような事情から、区議会議員の支援のない選挙に突入した。そこで、私である。この助役とは、ケンカもしながら、区役所のインチキ撲滅に共闘したこともあり、応援させていただいた。きっと助役さんは「今まで面倒みてやったのに…」と、さっさと寝返った与党区議らに、怒り心頭dったことだろう。

 ところが、助役さんの街頭演説には「保険をかけるように」区長与党の区議らの宣伝カーが少し離れて、いつも「応援している風」を装って止まっていた。いかにも姑息ではあるが、地方議員の「あるべき正しい姿」なのかも知れない。結果、与党の推薦を得た松原忠義氏が当選。助役さんは落選してしまった。

 選挙が終わると、注目は幹部人事である。初登庁前のゴールデンウークに、自民党大物(?)区議の自宅に、新区長松原さんと前区長の忠犬を装っていた区職員が集まり、前政権の粛清人事案を練った。その結果、前政権当時の優秀な管理職のほとんどが、区役所の外(他自治体や三セク)等に追いやられてしまった。

 まあ、平成19年から21年位までは、ナチスドイツか北朝鮮か、というぐらいの粛清人事の大田区役所だった。この粛清は、定年後まで及び、新政権に忠誠を誓わないと「天下り」の斡旋もしない、という恐ろしいものだった。

 松原新政権も2期目の半ばを迎え、政権発足当時に「裏の区長」とまで呼ばれた区職員も、その影響力が薄れ、さらに、その力を排除するためだろうか、東京都出身の剛腕副区長を迎えたり、庁内のパワーバランスもずいぶんと変化したようだ。当時、粛清人事候補だった幹部も、今や政権中枢に返り咲いている。もはや、旧西野派を意識する必要もない、松原新区長の自信の表れだろうか。

 それが証拠に、本日の祝賀会の実行委員長は、松原忠義区長だった。会場を埋め尽くした区内各種団体、有力者、企業、各級議員など約500名。蒼蒼たるメンバーである。

 さて、その西野善雄さんだが、一言で表現するならば「怪物」であろう。とにかく、良くも悪くも「凄い男」だった。彼は、昭和26年12月に大田区役所に臨時吏員として使用された。要するに、アルバイトである。それから、日本大学の夜間部に通い、東京都の幹部試験を受験、合格。都職員として大田区役所に配属になった。(当時は、区幹部は都職員だった)

 その悟は、区役所内の要職を歴任。区長を5期務めた。とにかく、中途半端な課長よりも実務に詳しく、区長の決裁を得るのは大変だった、と振り返る元職員も多い。


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09月21日(土)
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