ID:98044
いぬぶし秀一の激辛活動日誌
by いぬぶし秀一
[1480530hit]
■気仙沼支援最終日、ありがとう!
そして、もう何カ月も行っていたように、夕方のミーテイングのマイク係をこなし、ゴミを捨て、ロールカーテンを降ろし、気仙沼での業務を終了した。
たまたま、一通のメールの情報から参加した、極めてコアなボランテイアだったが、本当に多くのことを学ばせてもらった。
普段、議会では親の仇のようにその「非常識」ぶりを指摘している公務員、との同じ人種が、被災地では勤務時間を忘れて被災地のために奮闘している姿を身近で見ることが出来た。(管理職を含め残業手当はなし)
また、公立病院の経営的視点を訴えてきたが、そのことにも自ら疑問を感じた5日間であった。気仙沼の医療救護班に集った医師や看護師、薬剤師のほとんどが国立、都道府県立、又は公的機関の所属なのだ。(無論、私立総合病院のチームもいたが)
経営効率だけ考えれば、人員は最低限に絞って効率的経営を図ることが、民間感覚の経営である。しかし、このような震災時などに柔軟に人材を提供出来る体制を取るためには、それでは無理が生じる。
反面、そのことを民間病院に期待するのはこれまた厳しい。その意味からは、公立病院は単に病院経営という視点だけで考えてはいけない、と被災地現場での彼らの献身的な活動を身近に見て痛感した。
また、東京で庁舎のデスクや議場で「偉そう」に防災対策を語ることが、いかに陳腐なことかも考えさせられた。来週から始まる区議会第二回定例会。この体験を語るいいチャンスだが、あえて「質問通告」をしなかった。
それは、私が今回体験したことは、帰京後、数日で考えて質問したり提言したりする程中途半端な事ではなかったからだ。自分自身の人生観、公務員の在り方、など考えるべき命題を自分の中で解決しなければ、到底、防災対策への議論に辿り着かないのだ。
ヘトヘトに疲れながら、最後の任務である宿舎への送迎50キロをこなし、宿舎の部屋から荷物を持ってエレベーターに乗った。すると、一緒に乗った若人の防災服は私のそれと同じ。腕章には見慣れた「大田区」の文字が。なんという偶然。気仙沼に来て以来、どこかで「大田区」の文字が見えないか、と思い続けていたら最終日の最後に出会えた。
東京都の職員にバレないように「ご苦労さんです。区役所で一番嫌われている議員のいぬぶしです。」と、名刺を出し挨拶をした。若い職員さんは、ビックリして大慌てであった。驚かせてすまん!聞けば、大田区保健所の職員さんだと言う。大田区も頑張っているな。お疲れ様!
行きは、バスで移動したが、今回帰京するメンバーが6名しかいないため、ありがたいことに新幹線を用意してくれた。東京都職員と都立病院医療チームと、最終の新幹線で東京駅に到着まで防災対策、公務員とは、など熱い議論を尽くした。無論、車内販売のお姉さんに嫌がられるほど「すいません!スーパードライもう1本ください!」と、叫びながら。
深夜12時、やっと地元六郷にたどりつくと、私が著作権者の許可を得て千枚作った「がんばろう日本」シールを着けた若者が商店街のいたるところを歩いている。実は今日、地元の若人の有志が同じ地名の「仙台市六郷地区支援祭り」を企画し、そのボランテイアスタッフが、このシールを着用しているのだ。その心意気は素晴らしい。
きっと、反省会で遅くまで盛り上がったのだろう。お疲れ様!現地で今必要なもの。それは、救援物資やお金ではない、マンパワーだ。どうか若い方々で時間が取れる方は、是非とも現地に赴いて欲しい。1日でも2日でも。現地の方々の支援もさることながら、自分自身の人生にもきっと大きな力になるはずだ。
今回の支援活動では、素晴らしいメンバーと仕事が出来たこと、貴重な時間、体験を共有出来たこと、さらには、被災地の多くの優しさ、元気に出会えたこと、心より感謝申し上げたい。
復興支援のつもりが、実は被災地の皆さんから、大きな人生の指針と元気を頂戴しての活動であった。すべての被災者の皆さんの早期生活再建を心より願ってやまない。
(参考)
気仙沼市災害ボランティアセンター
・住所:宮城県気仙沼市東新城二丁目2-1
・電話番号: 080-5949-7475
06月04日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る