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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■続・セキレイさんのこと。そしてヒヨのこと。
すみません。
稽古場日記と関係ないのですが、これも途中なので。
「2011年5月11日-セキレイさんのこと」の続きです。



        *********

セキレイさんが帰ってきた。


やってきたのではなく帰ってきたのだと思っていたので、そのよそよそしい態度に戸惑ってしまった。

セキレイさんは完全に最初からやりなおしたのだ。

少しずつ、少しずつ、また1か月かけてベランダに馴染んでいった。
長い脚で、びくびくしながらぎこちなく歩き、長いしっぽをせわしなく上下に動かし、ときどき何かにひゃっと驚いて飛び上がった。そして、そのまま一目散に空の向こうへ退場していくのだった。毎日、それを繰り返しながら、少しずつ、馴染んでいった。

不思議なことに、見ている私も、最初からやり直すことになった。すずめたちのようにかわいらしいしぐさもしないし、始終落ち着きがないし、動きにもストーリー性がないというか、感情が読みとれないというか、なんというか、とにかく意味がわからない。毎日見ていてもなんだか距離が縮まらない気がして、疲れる。パステル画の中に一か所だけ水墨画のパートがあり、しかもそれは落ち着きなく動くのだ。

すずめたちのパンくずを取るな!と腹が立ったりもした。
彼らが来るとベランダの雰囲気にまとまりがなくなる。
人間だけでなく鳥の目から見ても彼らの動きは読めないようで、すずめたちもしばしばびっくりしてペースを乱すのだ。
なんて空気の読めない鳥なんだと憤ったりもした。

「だけどいい奴じゃん」と思ったあれはいったい何だったんだ?と自分でも納得いかない。「・・・・と思ったけどやっぱり嫌なやつだったのだ。物語は最後まで見届けないと、途中でやめては本質を見失う。」と思ったりした。イチローだって云っている。シーズンの途中で打率云々いっても意味がないと。

やっぱりイライラするのだった。なんだか腹が立つのだった。要するにそういう鳥だったのだ。

けれども、そこはまだ終わりじゃなかった。
あたたかくなるまで見届けているうちに、またしても、セキレイさんを待つことは私の日課になってしまった。「今日もセキレイサンが来ている」かどうかが重要なことになってしまった。そしてセキレイサンは重要なことに毎日来た。そしてベランダやすずめたちにふつうに馴染んでいった。

きっとセキレイさんは何も変わらなかったのだと思う。来た時も、そのあとも、いなくなってからも。私のほうが変わったのだ。人間は環境にすぐ影響される。毎日見てるものはなんとなく大切になっていくのだ。そしてそれは人間のいいところだと思う。
私はまた、覚悟しなければいけなかった。環境が変わる日のことを。

今度はせつなくてさびしかった。たぶん、セキレイサンがいなくなる日が来ることを、私はもう知ってしまったから。知らないことは起こらない。知るのは起こってしまったあとだから。すでに知ってしまったことは起こるのだ。

けれども。セキレイさんの退場は、私が思っていたものとは全く違っていた。同じように繰り返すのは季節だけだった。いや、季節だって、きっと少しずつ違っていたのだろう。


ある日、セキレイさんよりひとまわり大きな渋いデザインの鳥が手摺に止まった。角度によって、りりしくも見え、バカっぽくも見える鳥だった。
大げさな模様と、それが判別できないほどの地味な色合いのせいだろうか。
冠のようにも見えるし、寝ぐせのようにも見える、頭のうえのふわふわのせいだろうか。
落ち着きのないセキレイさんとは対照的に、ものすごくふてぶてしい感じの鳥だった。はとより少し小さいその鳥は、わがもの顔に手摺に止まると、「キーキー」ととんでもない音を出して鳴いた。セキレイサンを無視していたすずめたちは、その鳥が来ると、なんだか居心地悪そうにうろうろして、場合によっては退場してしまった。

気持ちはわかる。私も退場したくなった。
それが、ヒヨドリとの出会いだった。

写真を撮ろうとカメラを向けるとカメラ目線でポーズをとる。
しかも、背景に鉢植えの入る撮影ポイントで振り返るのだ。

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10月04日(火)
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