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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■「演劇は戦争に反対します」
こんな台詞をしばしば見かける時期があった。
今でも、見ようと思えば見えるのかもしれない。
私が見ようとしなくなっただけで。
初めて目にしたときの気持ちを忘れることができない。

数年前に書いた日記。
当時反戦演劇を企画していた友人に送ったメールの一部でもある。

当時うまく言葉にできなかったし、今でもやっぱりうまくいかない。
言葉にすると軽蔑されるようなことを、私はたぶん言っている。
人として、容認できないようなことを言っているのかもしれない。
こんなことを言っていると友達をなくす。
実際、なくした。痛かった。とても。


時間がたてば考えも変わるかと思ったけれど、変わる気配もないので、
改めて日記に掲載してみようかと、思った。



******************

イスラムはアメリカ的正義に反対し、
アメリカはテロに反対し、
そして、
演劇は戦争に反対する。

演劇は、何かに賛成したり反対したりしないものだと思っていた。
資格や条件を問わず、暗黙の前提なんかもなく、誰にでも開かれてるものと思っていた。

反論するためには、相手の言葉を学ぶのがマナーだと思う。
議論というのは、お互いが共通の言葉で語ることだから。

反戦というのはアンチである以上、議論だ。
だから、自分の言葉(演劇・音楽)を信じ、誇りを持ち、それを使って、その言葉を持たない相手と議論するべきだという考え方がとても恐い。
「私は日本人であることに誇りを持ち、美しい日本語であなたと議論したい」と、アメリカ人に議論をふっかけるのがおかしいように。
アメリカが、アメリカの文化と思想に誇りを持ち、アメリカの価値観
を信じてアラブを裁いたのと同じように。

イスラムはアメリカ的正義に反対し、
アメリカはテロに反対し、
そして、
演劇は戦争に反対する。

きっとみんな正義なのだ。
自分たちにしかわからない言葉で語られる正義とは何だろう?

私は戦争も反戦も怖い。
軍歌も反戦歌も怖い。
「世界はフセインに反対する」というブッシュさんのスローガンも、
「演劇は戦争に反対する」という演劇人の会のスローガンも怖い。
どこがちがうのかわからない。
なぜ、「わたしは」と言わないんだろう。

              *
 
混乱していてはいけないの?
これまでの言葉で説明できなかったことを表現する方法を混乱しながら探していくのでは間に合わないの?ひとつのスローガンのもとに敏速に結論をまとめてひとを集めるための手段として、それは必要なの?

私にはこんなことしか考えられない。
「現実に起きていることをちゃんと見ずに抽象論だけで考えるな。そんな風に作品を書くな。」と言われた。だけど私が命がけで立っている場所、見ているものは誰に断る必要もない、私の現実だ。私の命は私の現実を生きるためにある。

戦争について、何かを感じるひとはたくさん居ると思う。
反戦について、何かを感じる人もたくさんいると思う。
アメリカについて、政治について、文化について、いろんなことを感じる人がいると思う。
それぞれが、自分の実感にもとづいて活動すればいいと思う。

あんなたくさんの表現者がいっせいにおんなじ方向に刺激されるのは、それが「正しい」からなのか?

震災のときも聞いた。「現実」ということば。
「表現者として、現実に、行ってこの目でみなくてはいけないと思った。」
現実という言葉の意味がわからない。
実感するって、自分とその出来事との距離について正確に、目を凝らすことではないの?
現地に赴くこと=実感すること?

「表現者として、この戦争には反対しなくては。」

そうなのか?

反戦演劇ってなんだ?
真摯に自分の実感に基づいて作品を作った結果がたまたま世論の支持を得られることだってあるだろう。でも、本来作家がひとりで背負うべき責任を
誰からも指摘されずにすまされる異常な状況を警戒しても警戒しすぎることはない。



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12月04日(金)
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