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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■遠くのひとと出会う場所
1年くらい前。友人がウェブサイトを閉鎖した。
そのひと自身のいろんな個人的な理由があったのだと思うし、
それについての説明は公開されていたし、私はそれに共感したけれど
なんとなく、ちょっと、けっこう、ものすごく、ショックだった。
もとはといえば、インターネットを通じて知り合った。
その後、人や組織を通じて間接的に出会う不思議なご縁があって、
さらに直接会って話す機会を得て、そして4年がすぎた。
4年の間に、私はそのひとやそのひとのサイトの掲示板を通じていろんなひとと出会ったり話をしたりした。いろんなことを考えた。
私にとって、それはとても生産的な経験だった。
私のそのひとに対する印象は、最初にサイトを見たときから驚くほど変わっていない。関わり方がデジタルなものからだんだんとアナログなものに変わっていく過程で、確信を深めることはあっても違和感を感じることはなかった。
出会い系サイトでのトラブルがめずらしくないこのご時世で、あまりに不用心だと思った。だけど、公式に発表している文章とファイルの作り方や構成から伺えるひととなりに興味を持って接触することが非生産的なことであるならば、一度舞台を見ただけの役者と共同作業をすることだって非生産的なことになるじゃないかと思った。
後者がそうであっては困るので、前者も肯定することにしたのだ。
その後メールやネットを通しての関係も継続していったけれど、喧嘩になることはあっても違和感を感じることはなかった。
メールがひとを感情的にするとは私はあまり思わない。メールでする喧嘩はライブでもする。メールだから、ネットだから、という風に感じることは、世論がどうであれ、違和感を感じる。
デジタルな情報だけを手掛かりに相手を肯定しようとして失敗する例はいたるところにある。でも、だからといってネットやメールの情報が人間関係を不正確に形成してしまうという風には、私は考えることができない。ひとが発信した情報には必ずそのひとの「何か」を合理的に説明する手掛かりが含まれているはずだ。実際会ってみたときでも、一緒にお酒を飲んだときでも、一緒に暮らしてみたときでも、おんなじこと。どんな接し方をしても、そこからわかることは何かしら、ある。ほんのちょっぴりだけど。そしてとてもたくさんのことだけど。そして、どんな接し方をしたとしても、わかること意外は何もわからない。わかりすぎる(と思う)ことはあんまり生産的なことではないと思う。不十分な愛情と手掛かりを元に相手を「全面肯定する」なんて、たいていはとても不幸なことだ。それはコミュニケーションではなく、自己満足だから。
肯定できるものを肯定すればいいと思うのだ。肯定できないものまで肯定しようとするから裏切られたり失ったりする。その結果、「何も信じられない」というのは甚だしく論理性に欠ける結論だと思う。
情報がデジタルであっても、たとえわずかなものでしかなかったとしても、
それを元に相手を肯定することはできる。それらは、コミュニケーションの可能性を閉ざすものではないと思う。
そのひとがサイトを閉鎖する理由のひとつは、
「ネットでの交流に自分の生活の大半がとられてしまう。」
ということだった。
「大切に関わりたいひととは直接会って話そうと思う。」
と、そのひとは言った。
さっき書いたことと矛盾するように聞こえるかもしれないけど、私はそれをとてもいいことだと思った。
その掲示板は、いろんなひとが初顔合わせをすることのできる、開かれた掲示板だったのだけれど、主催者が、サイトの訪問者との距離を、「そのサイトの訪問者である」というだけの理由から一気に縮めてしまうことに、私はあまりいい印象をもっていなかったから。現実に交わされたもの以上の情報や近しさが複数の人間の間で共有されることは生産的なことだと思えないし、幸せな結果を生まない気がする。それは自己満足に終わる。ような気がする。自己満足のために適切な距離が測れなくなることが人間関係にとってプラスになるとは思えない。
だから、不特定多数の人間が集まる場がいったんそうなってしまったら、
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08月15日(日)
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