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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■なかったはずの風景
テレビで紹介されてたある絵描きさんの話。
彼女はパステルで似顔絵を描いている。
ふんわりやわらかいタッチの、素敵な似顔絵を描いている。
似顔絵描きのひとって路上でときどき見かけるけれど、
彼女は本人ではなくあずかった写真を見ながら描く。
だから、別々に撮った二枚のスナップ写真を見ながらふたりが一緒にいるところを描いたり、風景の写真を別に用意して、実際には本人が行かなかった背景の中においたりすることができる。
すごい人気で、現在は注文がうけつけられない状態だとか。
たしかに、とても素敵な作品ばかりだ。
「どんな注文が多いんですか?」
と尋ねられて、答えた彼女の言葉はとてもショッキングだった。
「わたしもおどろいたんですけど、コジンです。」
へ?似顔絵って、集団で申し込むものなの?
と一瞬思ったくらい、予想もしない答だった。わかった瞬間どきっとした。
「個人」じゃない。「故人」だ・・・。
一緒のショットが一枚も残ってない家族の写真、生まれてからずっと病院にいてそのまま亡くなってしまった赤ちゃんの写真、公園や遊園地に一度も連れて行ってあげられなかった子供の写真を持ってくるひとたちがたくさんたくさんいるという。
一緒にいるところを描いて欲しいと言われるという。
素敵な風景の中にいるところを描いて欲しいと言われるという。
私は「写真」にずっと興味があって、撮るのも見るのも大好きだった。
好きな写真はいつまででも見ているし、見るたびにどきどきする。
写真というのは「今はないけれど、かつて確かにそこに在ったもの」、そして、とてつもなくおおきなもの、を最小限の大きさに封じ込めて所有する手段だと思っていた。「かつてそこにあった風景」というものに、ものすごく惹かれる。
それは今でも変わらない。
だけど。
はじめて、「写真」ではなく、「絵」のことを考えた。
わたしたちは、「今はどこにもないし、かつてもどこにもなかったもの」を所有することだってできるのだ。
否。描かれてそこにある以上、逆算すればそれは<存在した>風景なのだ。
なかったはずであろうが、あり得ないといわれようが、そんなこととは無関係に、それはたしかに存在した風景なのだ。
ことばについて考えるときは「それこそがフィクション(物語)」の機能じゃない。」と当たり前に思っていたことなのに、なんでビジュアルの話になるとこんなにショッキングなのか、不思議でしょうがないんだけど、この絵描きさんの話に私はとても動揺した。
そんなわけで。
最近、「絵」のことを考えている。
02月05日(水)
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