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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 舞台「残夏-1945」公開稽古を観ました!(続き)
知人の野崎美子さんが演出する舞台「残夏-1945」公開稽古レポート。
一日では書ききれなかった、その続き。
聾者の母と娘を持つ主人公の「地続きになりたい」という台詞が印象的だった、その精神は「サイン アート プロジェクト.アジアン」の心意気にも通じるのではないか、というところで昨日の日記は終わった。
そのサイン アート プロジェクト.アジアン設立の中心になったのが、今回のプロデューサーでもあり出演者でもある大橋ひろえさん。
大橋さんといえば、昨年観た大窪みこえさんとの二人芝居「名もなく美しくもなく貧しくもなく」が記憶に新しい。さらにさかのぼって2008年に観た「ちいさき神の、つくりし子ら」に出演されていたのも印象に残っていた。
その日の日記を掘り起こすと、そこには「同じ景色を見ることはできなくても、相手がどんな気持ちでそれを眺めているかに思いを馳せることで、分かち合うことはできる」とわたしの感想があった。時がめぐり、今手話を学んでいるのは、そのときの気持ちが続いているのだろうと思う。
>>>2008年02月09日(土) プレタポルテ#2『ちいさき神の、つくりし子ら』
公開稽古の後の懇親会にもお邪魔させていただいた。
わたしの右隣には主人公の母を演じた五十嵐由美子さん、向かいには主人公の上司と主人公の母の両親のお隣さんを演じた西田夏奈子さん(「えびぞり子」のあだ名があり、手話ネームは「えびちゃん」)、右斜め向かいには手話通訳の高山さんという四人テーブルに着き、左隣には主人公の娘役を演じた貴田みどりさんがいて、左斜め向かいには主人公の元夫を演じた渡辺英雄さんがいた。途中で貴田さんのいた席に大橋さんが来た。
今観たお芝居の感想を伝えたくて、たどたどしい手話で話した。
大橋さんには「名もなく美しくもなく貧しくもなく」の感想も直接伝えられた。
「うちの娘は、カーテンコールのときの大橋さんの手刀が頭の上まで来る『ありがとうございました』が忘れられないみたいで、今でもやってます」というのも伝えられた。
大橋さん以外の方のお芝居を観るのは、この日が初めてだった。
五十嵐さんは、その身体表現の鋭さ、強さに圧倒された。誇りを持って生きる聾者の母の、内には様々な感情が渦巻いているけれど、凛と生きようとする姿が、伸びた背筋から伝わって来た。
お話はできなかったけれど、舞踏家として活躍されている雫境さん(主人公の母の父親役)の動きは舞踊のポーズの連なりのようで、手話表現と身体表現が溶け合って体全体がメッセージ体となっていた。
貴田みどりさんの吸い込まれそうに大きな瞳は、ときには手以上に饒舌に物語り、普段から「手話は手だけで表現するものではない。表情が大事!」と言い聞かされている手話学習者にとっては、あれだけ大きな瞳は望めなくても、手持ちの目玉をもっと表情豊かに動かせば女優の表現力に近づけるのではないかと思うのだった。
わたしの拙い手話を読み取るのは、かなりの集中力と想像力を要すると思うのだけど、お話しさせていただいた聾者の役者さんたちは「わかりますよ」と温かくうなずいてくれた。言葉が通じるってことは、地続きになるってことだなあとうれしくなった。
声のお仕事が多いのも納得の渡辺英雄さん、主人公夏実を演じた日野原希美さんのメリハリのある手話にも感心したのだけど、お二人とも元々やっていたわけではなく、今回の役が決まってから手話の台詞を身につけていったのだとか。もちろん役者の表現力もあるのだけど、手話に限らず、言葉というのは、伝えたいメッセージがまずあれば、表現はついてくるものなのかもしれない。目が離せない手話というのは、何かを懸命に訴えかけている。
手話というものにあまり触れたことがない人には、「残夏-1945」は手話表現の美しさ力強さに出会うきっかけになると思うし、手話を学んでいる人には、手話表現の奥深さに惚れ直すいい機会になると思う。
そして、自分とは異なる文化や価値観を持つ国の人たちと、あるいは戦時を生きた人々と、地続きになって同じ景色をわかち合おうとするすべての人々に、人と人がわかり合うことの意味を問いかけてくれる舞台だと思う。
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06月21日(日)
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