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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 【たま語】「わたしがしんだら……なくなっちゃうんだな」
そろそろたまが育成室(学童保育)から帰宅する頃だなと思って、近くまで迎えに行ったら、いつもと違うルートを通ったようで、入れ違いになってしまった。
「お母さん、今どちらですか?」と育成室から携帯に電話があり、「たまちゃんが帰宅したら、家に人がいなくて入れない、と見送った指導員から連絡があったんですが……」。マンション前に戻って待つこと数分、指導員の先生と一緒に現れたたまは、「ママ、どこ行ってたの!」。
ごめんごめん、迎えに行ったんだけどね……。
そのまま手をつないで、近所のお肉屋さんまで歩く道で、
「このままママがいなくなったらどうしようって思った?」と聞くと、
「それはおもわなかったけど、わたしがしんだら、あたまのなかでいろんなことかんがえてるのもなくなっちゃうんだなって、ときどきおもう」という返事が返ってきた。
不意打ちを食らった。
わたしも同じこと考えてた子どもだったから。
それがいつからか覚えてないのだけど、あるとき、「私が死んだら私の頭の中にいるお父様はどうなるのだろう」という詩(文言少し違ったかも。誰の詩だったのかも思い出せず……)に出会い、同じことかんがえてる人がいるんだなと、ほっとした。
娘の言葉で、あのフレーズが蘇った。
そうか、たまはもうそんなことを考えているのか。
「生きることは、頭の中でいろんなことを考えて、積み重ねていくこと」という意識が、もうあるということ。
だから、死んだら、それはどうなるんだろうと考える。
本を読んだ感想。
お友だちとのおしゃべり。
運動会。
お誕生会。
初めての映画館。
旅先で見た景色。
それらの積み重ねが人生。
記憶のミルフィーユが、自分を作っている。
その断片を取り出したいときに取り出せて、家族や友だちと分かち合える。
それが生きる楽しみ、喜び。
そう思っていたから、記憶の蓄積ができない「前方性記憶喪失」を発症するウェルニッケ脳症を知ったときは衝撃を受けた。
「記憶がどんどん消えてしまったら、生きることは、どんなに空しくなるだろう」と。
会社で隣の席だったデザイナーの飯田さんが毎週読んでたSPA!の見開き記事でウェルニッケ脳症を知って、10日ほど後に締切が迫ったNHK札幌放送局のオーディオドラマ脚本コンクールに向けて一気に書いたのが「雪だるまの詩」。
降っても降っても溶けていくはかない雪と、消えていく記憶を重ねた。
でも、雪は、固めれば強くなる。
自分のかわりに、誰かが、記憶の雪だるまを固めてくれれば、その雪だるまは、誰かの心の片隅で輝き続ける。
「生きるとは、自分と出会った人の心に記憶を残すこと」という気づきが作品とともに生まれた。
こどもの頃から考え続けてきたことだから、作品に切実さがこもったのだと思う。
そして、自分が死んだら……というおののきが、作品という記憶を残したい、と原動力になっていたとも思う。
「わたしがしんだら……なくなっちゃうんだな」
本当になくなっちゃう?
なくなっちゃうとしたら、どうする?
なくなっちゃわない方法は、ある?
たまは、どんな続きを描くのかな。
【たま語】はツイッター@tamago_bot822で過去のものと今のものをまぜて発信中。

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09月04日(木)
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