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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 「やわらかい生活」裁判を考える会
昨日、「そこをなんとか」顔合わせの後、「やわらかい生活」裁判を考える会に参加した。

絲山秋子さんの原作「イッツ・ オンリー・トーク」をもとに荒井晴彦さんが脚本を書いた映画「やわらかい生活」の脚本を「シナリオ年鑑」に掲載することを絲山さんが「拒否」。そのことに対して、荒井さんとシナリオ作家協会が裁判を起こした。東京地裁で敗訴し、知財高裁で控訴を棄却され、控訴審でも敗訴。最高裁への上告申し立ては認められなかった。

その一連の裁判を検証することで、原作と脚本、原作者と脚本家の関係を考えようという会。主催はシナリオ作家協会。

わたしは第2部の裁判報告の途中から会場入り。「そこなん」のおかげで、裁判の話が理解しやすくなっている。第一審では「契約違反!」と強気で戦ったが、控訴審では、とにかく勝とうということで「原作者に脚本の出版を止める権利があるのでしょうか?」とトーンをやわらげた。それでも、原作者の権利のほうが認められる結果となった。

第3部のパネルディスカッションも聞きごたえ十分。どっちが悪いと決めつけるのではなく、「著作権者」の権利の解釈をめぐる活発な議論が交わされた。


「原作ものの脚本は、誰のものか?」

脚本家の立場に立てば、「映画公開は許可したのに、どうして出版はダメなのか?」となるのだけど、原作者の立場に立てば、「じゃあ映画公開もNOと言えばよかったの?」となるかもしれないし、「映像はOKだけど、活字になるのはイヤ」という理由かもしれない。そういう個人的な事情を「身勝手」と断じてしまっていいのか、これが難しい。微妙でデリケートで他人からは理解不能な感情も作家の個性であり、それを否定してしまうのは、「作家性」の否定になるように思う。

だから、荒井さんの主張はもっともで、同じことを自分がされたらたまらないと思う一方で、絲山さんの気持ちもわかる、とフクザツな気持ちで聞いた。

わたしの原作を他の脚本家が脚本にする機会があったら、脚本にNOと言う権利は残しておいてほしい。でも、話がつかずに形にすることを差し止める場合は、原作の著作権使用料を返上するぐらいの覚悟を持ってNOと言うことになるだろう。

原作者も作家。脚本家も作家。どなたかが言われたが、原作と脚本は「個性のぶつかりあい」で、そこにはおのずと衝突や葛藤は生まれる。

両者を満足させるには、どこかで折り合いをつけなくてはならないけれど、願わくば、それが「妥協」ではなく「化学変化」の産物であってほしい。ぶつかりあうエネルギーを対立という消耗ではなく、面白い作品を共に産み出す生産の方向に使うことが、原作にとっても脚本にとっても幸せなのだ。

そのためには、交通整理をする立場のプロデューサー(出版社サイドも含めて)の力が大きいと感じる。

「昔は脚本家と原作者が酒を酌み交わしたりしたが、今は出版社が会わせたがらない」という意見が出たが、わたしは、それが悪いことだとは思わない。原作者だけでなく脚本家も守られていると思うし、脚本を書く間は、プロデューサーから伝わる情報からどんな方なのかを想像し、遠くのペンフレンドに手紙をあてるように「いつか会って感想を聞けますように」という気持ちで書く。

もちろん原作者ひとりを喜ばせるために書くのではないし、原作のファンだけを満足させるために書くのでもない。でも、原作を育てた人たちへの敬意が、根っこにあるべきだと思っている。

同じように、原作者が脚本家に「わが子」である原作を預けるには、信じる気持ちが潤滑油になるだろう。「この人なら悪いようにしない」という前提があれば、もし意見の食い違いがあっても、軌道修正はしやすいだろう。

原作者と脚本家の関係は、脚本家と監督(演出)の関係とも似ていると思う。書き上げた原稿はオリジナルであれ原作ものであれ、脚本家にとって「わが子」になる。それを現場で監督に書き変えられることは、よくある。変えて良くなる場合もあるけれど、改悪になる場合もある。「うちの子になんてことを!」そんなとき、脚本家は原作者の気持ちを味わう。


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07月21日(土)
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