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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ セクハラサイコロ事件で考えさせられた白と黒
ツイッター画面を見ていたら「セクハラサイコロ」という言葉が目に留まった。少し前に新聞記事を読んでいたので記憶に新しかった。小学校の男性教師がサイコロの目に「ハグ」や「キス」と書き、罰ゲーム代わりに児童に振らせていたという。実際にハグしたりキスしたりということはなく、真似だけだと書いてあったが、最近立て続けに目にした「教師の悪ふざけが過ぎた例」のひとつ、とわたしはとらえた。

算数の問題に殺人を持ち込む(一日に三人ずつ殺したら何日で全員殺せるか)先生に比べれば、まだかわいいほうかと思ったり、先生たちも、子どもたちのご機嫌を取るために、無理したり無茶したり大変なんだろかと想像したり。

ツイッターでわたしが目に留めたのは、セクハラサイコロ・私の知る話というブログ記事の紹介だった。セクハラサイコロ事件で問題にされた先生が4年生のときの担任だったという人が書いたもの。そこには、記事から受けた印象とはまったく違う教師の姿があった。

子どもと一緒になって楽しめる人気者の先生が、男子児童とのノリで始めた遊びの罰ゲームサイコロ。それが、男子だけだとずるいということで、女子版も作られることになった。先生を囲んでワイワイやりながら「ハグ」や「キス」が加わり、セクハラサイコロという名前がついて、もう何年も経つという。

ブログの中に「5拍子のような先生」という描写があった。型にはまらない、はみだしたところのある先生。それをユニークと評価する人もいれば、変、おかしい、と嫌悪する人もいるだろう。わたしの小学校時代にもそんな先生がいた。子どもたちに好かれ、保護者や同僚教師から問題視されるタイプの。でも、わたしは、その先生のクラスにいる親友がうらやましくて、自分も入りたくてしょうがなかった。卒業して何十年経っても、そのクラスの子たちが先生から受けた影響の大きさにびっくりする。

セクハラサイコロ先生のノリをすべての児童が受け入れていたとは言えないだろうし、保護者の中にも戸惑う人はあっただろう。反発を覚えた児童なり保護者が先生を攻撃するのはたやすい。教室で男性教師が女児相手にセクハラサイコロを振っている。それを擁護するよりも、非難するほうが、たやすい。わたしもまた、小さなベタ記事を読んだだけで、会ったことのない一教師のやり方を否定してしまった。

もちろん、ブログに書かれていることが、すべてでもない。書かれている方もそのことをわきまえていて、決して自分の意見を押しつけようとせず、あくまで自分の知る話を聞いて欲しいという態度でいる。

セクハラサイコロそのものが正しい、とはわたしも思わない。もっと適切な(槍玉にされない)ネーミングがあっただろうし、サイコロの目を埋める罰ゲームだって、もっと角が立たないものにできただろう。でも、そのことだけをとらえて問題教師の烙印を押してしまうことは、性急だった。

そもそも教室の中で決着がつく問題ではなかったのだろうか。そこで議論が尽くされる前にメディアが結論を下し、世論がのんでしまった感もある。

双方の、というより、複数の、様々な、言い分を聞かずに、白か黒か決着をつけてしまう浅はかさ、恐ろしさ。そのことを思い知らされた。わたしが忙しくなったせいか、世間がせっかちになったせいか。情報の駆け巡るスピードが速すぎて、こちらがじっくり考える間もなく断罪が始まっている風潮はある。セクハラサイコロ事件だって、新聞記事の論調はすでに問題教師扱いだった。

でも、疑問を差し挟むことだってできたわけで。

インターネットという便利なもの、とりわけ情報の乗り物としてはとても手軽で小回りのきくツイッターのおかげで、もうひとつの視点を得ることができた。でも同時に、自分の思考もツイッターのタイムラインのように、知らず知らず流されていたんだなと気づかされる。

立ち止まって考え、自分の頭で白黒つけないと、ただの情報受け渡し人になってしまう。
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