ID:93827
脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
[786212hit]

■ 大学ノート80冊分の日記
関西での仕事のため、娘を連れて大阪へ。実家に帰ったら、やりたいことがあった。子どもの頃に書いた小説を発掘して、パソコンに打ち込もうという計画。そのノートを求めて「雅子」と書かれた段ボールを開けたら、大学ノートがどっさり出て来た。小学校から高校時代にかけて書きまくった日記と交換日記。数えてみると、80冊を超えている。

交換日記は相手と二人がかりでノートを埋めるから半分で計算しなきゃと思いきや、「かわりばんこにノートを買い、買ったほうが書き終えたノートを引き取る」仕組みになっていた。ということは、これだけの分量のノートを自分の文字で埋めたことになる。しばしあっけに取られた後、一冊ずつ中身を確かめて、「日記」「交 のんのん」などと日付を添えてマジックで書きつつ分類する作業に取りかかった。懐かしさについページをめくってしまい、作業は止まってばかり。結局夜中までかかった。

今の中学生にはケータイという便利なものがあって、気になる子とはあっという間にメル友になっちゃうのだろうけれど、わたしが中学生の頃は、男女が交換日記をするというのは「つきあう」と同義語で事件だった。交換日記をはじめたカップルのノートを買いにいくのにクラスメートが集団でつきあったり、「彼氏が他の女の子と交換日記してる」ことが大問題になって揉めたり。微笑ましいというか歯がゆいというか、信じられないほどウブだった。「『スピード』でストレス発散」とあるスピードは、ヤバいクスリではなくトランプだし、友人がわたしのファッションを見て褒めた言葉は「ナウい」だし、中学卒業のときに髪を切った美容院の名前は『チャーミング』。十年ひと昔というけれど、四半世紀以上前だと日記もすでに古典。

自分では忘れていたこともたくさん出て来た。PL学園で活躍していたナマの桑田選手と清原選手を目当てに甲子園まで行ったこと。嘉門達夫の番組にハガキ書いていたこと。金沢嘉一さんという作家に手紙を書いて返事をもらったこと。三年前に小中学校時代の同窓会をやったとき、「この子、亡くなったんだっけ」と同級生と話した子のことも日記には書かれていた。入退院を繰り返していた彼女は白血病で亡くなったのだった。友人たちと線香を上げに行ったけれど、家の人には会えなかった。その帰り道、「生きる期間に差があるなんて、おかしい」と話し、「私が死んだら、一時はワーッとないてほしいけど、いつまでもしずまないでほしい。いつも、私のことを思い出したり話したりして、ぜったいに忘れないでほしい」と日記に遺言していた。

日記を読み返すと、「変わってないなあ」と思う部分もあれば、「同じ自分が書いたのか」と驚く部分もある。小学校のときから「私は私」と主張し、「人生を面白くするのは自分次第」なんてことを言ってる。負けず嫌いなのも感動体質なのも変わっていない。へこんでいる友人を励ます言葉はやたら熱くて、「どんなクラスにいようと同じように好きにならないと。もどれない所にもどろうとするとよけいくるしいでしょ」「希望を信じたければ、現実を半分だけ信じとけばいい」などと芝居がかっている。

意志の強さは昔からだけど、今よりもずっと頑固で融通がきかなくて、あきれるほど正義感が強くて、毎日のように日記で怒っている。掃除をさぼる男子に怒り、点字ブロックが市役所の手前で切れていることに怒り、友人を嘘つき呼ばわりしたクラスメートに怒り……読んでいて疲れるほど怒っている。中学一年の最初の頃に担任の吉田恵子先生に日記を見せていたけれど、そのノートの角で頭をコツンとされた(たぶん先生は親しみを込めてふざけたのだと思う)ことに怒って、日記を見せるのをやめてしまった。

クラスの女子がみんな泣く場面では意地でも泣かないくせに、学習教材のセールスマンが置いていったアンケートをなくして平然としている妹と、それに対して「別にええやん」と言った母には涙の抗議。われながらついて行けない感情の起伏の持ち主だったくせに、自分のことを「さめた少女」と分析していたりして、昔のわたしは相当屈折していたのだろうか。


[5]続きを読む

06月11日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る