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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ マタニティオレンジ72 出産ドキュメント
25時頃、助産師さんが応援をお願いしたベテラン助産師さんが到着。白衣に白髪、深夜に駆けつけたにも関わらず、きちんと化粧を施された顔はおしろいで白く、その中でピンクの口紅を塗った唇だけが色を放っている。ベテランの余裕と貫禄を登場の一瞬で感じさせた。「さあ、ここからが正念場だよ」。すでにさんざん正念場だったのだけど……。「もうダメです!」と弱音を吐くと、「赤ちゃんはもっと苦しい!」と激が飛ぶ。火事場の馬鹿力でいきむと、「上手、上手」と助産師さんが二人がかりで褒めてくれる。「だいぶ進んだよ」「ほら頭が見えた」「鏡で見る?」「手を伸ばしたら、頭触れるよ」。そう言われても、「そんな余裕ないです!」と叫ぶ。「痛い、痛い」「どこが?」「股!」「そりゃ股は痛いわ」と助産師さんが吹き出す。やはり直径的に無理がある、と鼻からスイカ伝説を思い出すが、ここまで来たら出すしかない。
「ヒ、フー」だった呼吸はついに「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」と舌を出す犬状態に。あとはもう無我夢中。ゴールテープが見えたマラソンランナーの心境。出産の瞬間はえもいわれぬ爽快感がある、と誰かが語っていた。「十か月の宿便」は言い得て妙なのかもしれない。めったに味わえない感覚だから、それをしっかり味わおう。楽しみができると、雲間に射し込む光のように、マッシロな頭に余裕が生まれた。出産中は麻薬物質のようなものが出て、痛みに鈍くなるという話も聞くから、そのときのわたしは恍惚状態に入っていたのかもしれない。
「さあ、行きますよ」。助産師さんの声にもラストスパートの力がこもる。次の瞬間、おなかの上に確かな重みがのっかった。小さな体を震わせ、泣いている生き物、これがわが子なのだとすぐには実感が湧かない。母親学級で見せられた出産ビデオでは、無事出産のこの場面でどばっと涙が出た。自分のときは号泣するんじゃないかと思ったら、安堵感のほうが大きくて放心状態になっていた。修羅場の喧騒がしずまると、CDから流れるオーボエの穏やかな音色が部屋に満ち、なぜかフランダースの犬の最終回、教会の冷たい床で抱き合うネロとパトラッシュの姿が頭に浮かんだ。
「8月22日午前2時28分」。助産師さんが壁の時計を読み上げながら素早くメモする。上から読んでも下から読んでも822228、回文だ。このとき、産んでみてのお楽しみだった性別を知る。男の子だと勝手に思い込んでいたので、女の子だとわかってびっくり。出産の間、わたしが「たまー、がんばれー」と呼びかけていたので、産まれた途端、助産師さんも「たまちゃん、よかったねー」と呼んでくれたのだが、「名前じゃなくて、卵のたまです」と言うと、不思議な顔をされた。ダンナの手にハサミが渡され、テープカットならぬへその緒カット。健康なへその緒は太くて弾力がある。ゴムチューブのような手ごたえで、なかなか切れなかった。
やっと出産が終わったら、まだ胎盤が残っている。後産というらしい。ゴールテープを切った後にもう一周と言われるような気分。胎児に比べるとずっと小さいのだけど、モチベーションが低い分、しんどい。これが赤ちゃんの入っていた袋、胎嚢。破水のとき、ここが破れたのよ。これが胎盤。レバーみたい? などと助産師さんが丁寧にレクチャーしてくれる。胎盤を食べたという知人がいて、わさび醤油がいけると話していたが、わたしは食欲が湧かなかった。
たまはいったん診察室に連れて行かれ、身長と体重を計られる。50センチ、3238グラム。小さく産むはずだったのに、大きく産んでしまった。初めてのおっぱいを含ませながら、「3000切ってたら、もう少しラクだったんですかねえ」と言うと、「生まれるタイミングは赤ちゃんが決めるから」と助産師さん。今日出てきたい、とたまが思ったのだから、それでいい。
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02月05日(月)
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