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脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
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■ 梅佳代×難波田龍起の思わぬ化学反応
絶筆の画家と梅佳代の写真は、たまの中では無関係ではなく、つながっていたらしい。
精力的に作品を重ねていた画家が力尽きて亡くなってしまうように、家族写真に納まっていた笑顔のおじいちゃんも、いつかは、いなくなってしまう。
そして、自分の大好きな家族も……。
たまの想像力は、そこまで先回りしてしまったのではないか。
そう見当をつけて、「パパやママがいなくなっちゃうと思って、こわくなったの?」と聞くと、泣きじゃくりながらうなずき、「ママがいいよう」といっそう強く泣いた。
ひと駅手前で降りて、スーパーで材料を買って、おやつにパフェを作ろうという計画だったのだけど、とにかく家に帰りたいと言うので、まっすぐ帰宅し、涙を落ち着かせた。
パフェの材料を買いに出かける道で、「ママがいなくなったら、やだ」。
パフェを食べてひと心地ついてからも、「ママがいなくなったら、どうしよう」。
思い出しては泣くので、目のまわりが赤く腫れてしまった。
「ママがいなくなったら、たまちゃん、ごはんつくれない」と現実的なことを言って、脱力させてくれた後に「ママがいなくなったら、ママに、ぎゅう、してもらえない」と言うので、わたしまでせつなくなってしまった。
これまでも、死というものについて考えたり話したりする機会はあった。ご近所さんが亡くなったときは、死ぬと体はどうなるのかと知りたがり、焼かれると聞いて、では心はどうなるのかと聞いてきた。
怖がらなかったのは、どこか他人事で、自分の身近な人にはふりかからないもののように思っていたせいかもしれない。それが、今日、梅佳代の家族写真と難波田龍起の絶筆が頭の中で化学反応を起こし、死が他人事から我がごとになってしまった。
難波田龍起の紹介リーフレットを開くと、〈高村光太郎との出会いによって詩と絵画の境界線がなだらかにつながった。〉〈高村光太郎によれば「芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかっている」。〉〈「いのち」とは目に見えない自然のエッセンスであり、ものの本質を言い表す言葉である。とすれば、デッサンとはそれらと魂を通わせながら手で捉えること―内と外の世界を結ぶことにほかならない〉といった言葉があった。
たまにとっては、写真と油絵の境界線はなく、両者はなだらかにつながり、「いのち」を訴えかけてきたのかもしれない。年月をかけて思索を深める芸術家の境地に近いところで、子どもは作品と対話しているのかもしれない。
自分と同じような子どもの写真を見て、無邪気に面白がる姿を予想していたら、思いがけない反応になった。
でも、梅佳代の写真が「家族」の「生」をはっきり写し取っているからこそ、そこに「愛」が宿っているからこそ、絶筆の意味を知ったときに「失うもの」の大きさを感じてしまったのではないか。台詞や生活音が聞こえてきそうな、汗や息のにおいが漂ってきそうな、一瞬をわしづかみしたような写真だから、たまはいつも以上に感応したのだ。そんな気がしている。
梅佳代がおじいちゃんを撮り始めたきっかけは、高校時代に「じいちゃんは撮っとるうちは死なんと思った」ことらしい。もちろんそんなことをたまは知らないのだけれど、シャッターを切る梅佳代の念のようなものが、写真からにじみ出ていたのかもしれない。
今回の展示では、その後のじいちゃんのショットも加えられているという。じいちゃんは長生きしているようで、良かった。
こうして、書評止まりだったわたしの知識に、新たな梅佳代評が刻まれたのだった。
「梅佳代展」と所蔵品展「難波田龍起の具象」そして「project N 秋山幸」は、いずれも6/23(日)まで。
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05月26日(日)
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