ID:93827
脚本家・今井雅子の日記
by いまいまさこ
[786534hit]

■ エッセイの文体とはその人自身なのではないか
ちょうど今日の打ち合わせは、新しいエッセイ連載の編集者との顔合わせだった。「FAXでいただいた原稿をこちらで推敲し、打ち込んで確認します」というやり方にわたしは戸惑い、議論になった。こちらとしては素材ではなく完成原稿をお渡しするつもりだし、指定された文字数で納めるので、最初から推敲、編集する前提でいられると困りますと訴えた。「無駄な表現は省き、わかりにくい言葉はカッコ付きで説明を加えたい」という趣旨のことを言われたので、「そのように指示していただければ自分で再考して修正しますが、勝手に手を加えられると文体が崩れます」と食い下がった。

こちらがFAXで送った原稿を編集者が打ち直すということにも抵抗があった。メールでの受け渡しではないので必要な作業なのだが、それによって編集者の頭が整理される利点もあると言う。打ち直すと、確かに、こうすればもっといい文章になるという方向性が見えるのは確かだが、それで手直しをすると、編集者の文章になってしまうのではないか。

そもそもどうしてメールを使わないのかという議論も交じって話は堂々巡りしたのだけど、突き詰めると「自分の文体へのこだわり」の違いなのかなと重い至った。「原稿を送りますから適当に編集してください」とおまかせされる方は、この編集者のやり方には何の違和感も覚えないし、「これでどうだという原稿を送るので、よっぽどのことがない限り尊重していただきたい」と主張するわたしには、原稿を一から打ち直されること自体に抵抗を覚える。

一言一句変えてくれるなということではなく、書き手の文体を尊重して欲しいのだということをただわかって欲しかったのだ。脚本にももちろん文体はあるのだけど、それは撮影のための設計図としての使命を担うから、より使い勝手のいいように直される宿命を負っている。けれど、エッセイは書き手の内面が文章に映し出されたものであり、その文体は小説以上に書き手自身を現しているとわたしは思う。だから、いじることが前提と言われると、聖域を侵されるような気がして、ムキになった。それだけのことだけど、千疋屋フルーツパーラーに不似合いな熱さで言い募り、編集者を閉口させてしまった。

09月09日(水)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る