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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 河合家の人々 〜 七人の男の子 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070719
 
── 小学校の頃だったと思う。鏡に映る自分の顔を見て、「こんな変
な顔を見て、なぜ誰も笑わないのだろう」と疑問に思ったことがある。
兄弟の顔を見てもそれぞれいい顔をしているが、自分だけあまり似てい
なくて変てこである。とうとうたまりかねて兄の雅雄に訊いてみた。兄
の答えは極めて明快で、「そら、自分の顔なんて、めったに見やへんか
らやろ」というのであった。そう言えば他人の顔はよく見慣れているが、
自分の顔など鏡を見るときだけだから、めったに見ることはない。そう
すると、もう少し自分の顔も見慣れるようにすると、それほど変に思わ
ないのだろう、と納得した。しかし、その後熱心に鏡を見たという記憶
はない。
 小学生のときにこんなことを思ったくらいだから、相当に自意識が強
かったのだろう。ともかく「私」という存在が気になるし、いろいろ
「研究」してもわからないことが多すぎるのだ。
── 河合 隼雄《わからないことが多すぎる》巻頭言
── 《文芸別冊 総特集 こころの処方箋を求めて 20010430 河出書房新社》P006
 
 阿波 雅敏《余りに未解決な事が多すぎる 195909‥ Typograph》
── 《虚々日々 20001224 阿波文庫》P109
 
 ◇
 
 未来への記憶(十) 〜 自伝の試み 〜  河合 隼雄
 
── しかし、大学生活はもちろんそれだけではなかったのでしょうね。
河合 忘れられないのは、京大オーケストラに入ったということね。ど
うせドン・チャンやっているぐらいだと思って練習場を見に行ったので
す。そうしたら、ベートーヴェンの二番をやってたんですよ。あんなに
感激したことはなかったですよ。「大学生がベートーヴェンをやってい
る!」って。第二楽章をやってたんですよ。忘れられませんわ。カッコ
よかった。そのとき指揮していた人が長広敏雄さんですよ。あの敦煌の
研究で有名な。
 前にちょっと話したけれど、ぼくはオーボエがやりたいと思った。オ
ーボエなんて楽器は、ふつう先輩から受け継いでいくのです。ところが、
先輩にすごくうまい人がいて簡単に譲ってもらえないし、自分で買いた
いと思っても金がないので買えない。それで、まあ、フルートでも吹い
たらということになった。フルートは中古で買えますからね。数学の家
庭教師をして三〇〇〇円で買った。(略)
 山田忠男さんという、ぼくらはヤマチュウさん≠ニ言ってたけど、
その人が京大オーケストラの指揮をしておられたので(長広さんは特別
に一年間だけだったようで)その山田さんのところへフルートを習いに
行っていたんです。それはすっごくうれしかったですね。一生懸命にな
ってフルートばっかり吹いてましたよ。
── その当時の京都大学、あるいは京都大学の理学部の一般的な雰囲
気というのはどんな感じだったですか。
河合 大学の雰囲気とか大学の研究とかそういうのがぼくにはわかって
いないんです。要するに、数学科というところは、先生方は「もうどう
せおまえらだめや」と思うているわけですよ。
 じつは、つぎの年に雅雄兄貴が入ってくるんですよ。結核で寝ていま
したから。だからつぎの年に兄の影響で私の大学生活がコロッと変わる。
そのときに感心したのは、兄貴は動物学科へ入ったんですが、動物学科
というのは研究室に学生でも一年生の時からちゃんと一人一人机と椅子
を持ってるんですよ。最初からなんとなく研究者扱いされて、みんな自
由に話しをしている。
 そのころのことですけど、梅棹忠夫さんが教授に立候補するんですよ。
兄貴がむちゃくちゃ興奮して帰ってきてね。「おまえすごいやつがいる
!」って、「だれや?」言うたら「梅棹いう大学院生が教授に立候補し
た」言う。動物教室はものすごくデモクラチェィックだったんですね。
 片方は、そういう一年からちゃんと研究者扱いするような雰囲気でや
っているのに、こっち側は、隣の教室ですけど、もうどうせおまえらあ
かんと、卒業論文がないんですよ。要するに、おそらく論文を書ける人

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07月19日(木)
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