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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 飢餓文化 〜 舌の記憶 〜
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060629
犬は、人を認識して、みずから家族の一員だと考えているらしい。
猫は、ふだん無愛想だが、腹が減ると家族に催促したりする。
牛も、飼主の家族を認識し、甘えてすり寄って来るそうだ。
芸をする動物は、ほとんど人を識別できるらしい。
猿や象や馬など、サーカスに登場する獣は、これに類するはずだ。
豚も、すこしは芸を覚えるから、人見知りするのだろう。
鶏も、餌を与える者が来れば、集まる。
池の鯉が、手を打てば集まるようなものらしい。
兎は、餌に群がるだけで、人には無関心だ。
二つの重要な尺度は、草食か肉食か、あるいは共食いか否かである。
草食である牛の飼料に、肉骨粉を混ぜて“狂牛病”騒動が発生した。
さわらは、共食いするほど旺盛な養殖魚だが、いささかくどい。
◇
むかしむかし与太郎の家も兎を飼っていた。父も母も料理できないが、
親戚の青年(父の義弟)が来るたびに、一羽つぶした。
青年は手ぶらでやって来て、たらふく食べた後、手土産を持ち帰った。
食糧難がすぎて、小学校では学級ごとにウサギを飼うことになった。
ウサギ係りに任命された与太郎は、ウサギ日記を書くことになった。
どうにも興味が持てないまま、何度も先生にウソをついた。
あるとき「日記帳を家に置いてきた」とか云って見た。
ある日は、勧進帳よろしく、書いていない日記を朗読したこともある。
敬愛する担任に「先生は、ウソをつく子はきらいや」とも云われた。
小児結核で休学して、ペニシリンが手に入るまで当時せいいっぱいの
栄養源を、毎日毎夕いやというほど食わされた。
父のブローカー商売が運よく当ったからこその贅沢だった。
あるとき母が“まぶし”と称して焼いたのは、あきらかに本物の“蝮”
だった。すこし青くさいが、舌ざわりや歯ごたえは“鰻”と変らない。
もちろん生血も飲まされた。のちに味わったスッポンのように。
中年になって、ウサギの味を忘れたころ、ふたたび食べた。
大阪ロイヤルホテルで、南仏産アンゴラウサギのステーキが出た。
牛肉も用意されていたらしいが、首をふってウサギを選んだ。
トリのササミのような舌ざわりが思いだされた。
鹿の肉も、七歳から三十三歳にかけての空白があった。
どちらも、さほど美味いとは思わなかった。
◇
馬の肉は何度か、馬刺(ばさし)で食べた。
ある高校教師は、牛と馬の見分け方を(授業中に)教えてくれた。
牛鍋屋で、知らぬまに馬肉を混ぜているらしい、という噂があった。
肉を運んできた女中が、部屋を出たら、その肉片を壁に向って投げる。
牛肉なら、ベタッとくっ付くが、馬肉だと落ちるらしい。
そこで戻ってきた女中に見せて、もう一皿サービスさせたそうだ。
二十二歳のとき、はじめてセンマイをご馳走になった。
群馬県高崎市のクラブ・銀座の社長が「いかがですか?」と云った。
いちおう「おいしかったです」と答えたが、無味乾燥の味だった。
牛の3番目の胃で、内側のひだが千枚状なので、こう呼ばれる。
三十代に、牛のあらゆる部位、喉の骨(ウルテイ)まで食べてみた。
三十代なかば、はじめて食べた焼き鳥風カエルは、とても旨かった。
羊(マトン)は“ジンギスカン”の名で親しいが、あまり旨くない。
猪(イノシシ)は、和田氏の招待で“ぼたん鍋”を囲んだ。
猪豚(イノブタ)は古寺氏が食べた話を聞いた。
四十代を過ぎると、大概のものは食べつくした気がする。
なにか変ったものはないかと、専門家に聞いてみた。
いまや禁食だが、大山椒魚(別名=ハンザキ)あたりが珍味らしい。
── 天然記念物に指定される前の北大路魯山人の記述によると、肉を
煮ると強い山椒の香りが家中に立ち込めたという。最初は堅かったが、
数時間煮続けると柔らかくなり、香りも抜けて非常に美味であったとい
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06月29日(木)
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