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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 抜刷解題 〜 まとまらないことなど 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040322
 
 この小冊子は、パソコンのために書かれた日記形式の《与太郎文庫》
から、最近の(任意の)部分を抜き刷りしたものである。
 長岡京室内アンサンブルの文字 武・高芝 義和両君との晩餐、演奏会
場での小石忠男氏との再会など、いずれ“故旧・十字屋余話”につづく。
 一連のテーマは“遠来の人々”である。与太郎にとっての客人、客人
としての与太郎を身辺雑記風に配した。巻頭に象徴的な“ハーメルン”
をかかげたのは、与太郎自身もまた、遠来の旅人であることをしめす。
 
── きみの招きがあれば、いつでも赴く用意がある、あるいはきみが
訪ねてくれば、いつでも迎える用意がある。
     ── 《畏友 〜 河原 満夫君への未投函書簡 〜》草稿より
 
 1963年ごろ、与太郎が大学ノートに書いた自伝初稿を、はじめて見せ
たのは河原満夫と楠原大八の両君だけだった。
 河原は、このとき想像以上の辛抱強さで、最後まで黙読してくれた。
「きっちりした文章で、君の云わんとするところが、よく伝わってくる。
幼い又従妹・公子の死体を見つめたことが、重要な記憶になるだろう」
 彼の指摘は(即席ながら)みごとな卓見だった。
 
 それから三十数年のちに《虚々日々 20001231 阿波文庫》を完成した
与太郎は、吉田肇に(ある感慨をこめて)電話で伝えた。
「この作品は、自伝資料として最初だが、印刷物としては最後のものだ」
 ゴリは(むかしとちがって)慎重に「そうか」と答えたが、それほど
重々しく受けとめたとは思えない。
 与太郎は、十才のころから数えて五十年におよぶ編集技術が、過去の
ものになったことを惜しんでいたのである。
 
 そのあと《虚々日々》の続編をかねて追記・補註をまとめる必要から、
非公開の《去々日々 20011231 阿波文庫》を手もとで編集していたが、
このころからネット情報が激増しはじめた。ついぞ知るすべのなかった
ジャンルまで、奔流のようにあふれはじめたのである。
 あまりに大部になって、とどまることがない。
 
 日々の流れの中で考えるに、いまさら分っても、自分ひとりが知って
いるわけではなく、その気になれば誰もが知りうる情報である。
 読みのこした大著も、ほとんど手をのばせば届くのだから、かならず
読むほどのこともなさそうである。
 それより、せっかく生きてきたのだから、自分で考えたことや迷った
こと、面白いと感じたことなど、他人が書いていないことだけでも記し
ておきたい、と初心にもどることにした。
 
 読むべきか書くべきか、という命題は、実は経験ずみだった。
 九才のころ、子供むけのスティーヴンソン《宝島》を読みはじめると
同時に、与太郎はもう一編の自作《宝島物語》を書きはじめたのである。
 こんなに面白そうな小説は、自分が書けばもっと面白いものになると
考えたが、はたして処女作は数ページで暗礁に乗りあげ、いまも未完の
ままであり、原作そのものまで興味を失ってしまった。
 たぶん、いま読みかえせば感慨ひとしおだろうが、これまでのところ
機会がなかった。
 
 「誰もが人生という題名の長編を書いている。シェーファー万年筆」
 この傑作CMコピー(1977年ころ?)のように、書くべきことは多い。
 ホームページを《虚々日々》に先んじて開設したのは、おなじ内容の
ものを順次公開する予定だったが、このころから(過去の)編集技術が、
ほとんど役にたたないことが判明しはじめたのである。
 
 与太郎が目ざしたものは、一冊を手にとって、パラパラと頁をめくり
ながら、全体の構成が把握できるような編集技術である。
(そのページ数は、原則として16の倍数であることが望ましい)
 一般に誤解されているのは、写真やイラストを多くして、文字の割合
を少なくすれば、理解しやすいというものである。
 いったいどんな作品を指しているのか思いあたらないが、それに近い
実例は、あんがい凡百の教科書かもしれない。

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03月22日(月)
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