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与太郎文庫
by 与太郎
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■ やしき・たかじん胸いっぱい
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>>
たかじん胸いっぱい やしき たかじん
佐々木さんは京都の芸妓(初代豆六)の息子で、同志社大学時代には
全日本フィギャアスケートのチャンピオンになり、アメリカはエール大
学に留学。帰国後、ホテルオークラに勤めたが数か月でホテルを辞め、
京都で最初のハンバーガーショップを開いた人である。
なぜハンバーガーショップであったかというと、留学中にハンバーガ
ーなるものを初めて食べて、これは日本でも流行ると直感したからだそ
うだ。
四条川端(南座の真向かい)に「ホリデー・バーガー」という店をオ
ープンした。昭和四二年のことである。
当時ハンバーガーなどというアチラの食べ物はまだ馴染みはなかった
が、若者には大受けして商売繁盛の大当たり。半年後には藤井大丸(百
貨店)に支店を出し、破竹の勢いかと思われた。
その頃、京都は日本のブルースやフォークの発祥の地として、さまざ
まな人間が台頭していた。偶然だったかもしれないが、佐々木さんはつ
ねに新しいことを目指す若者をこころよく迎え入れた。それもまるで無
償で面倒をみた。
だからホリデー・バーガーは、いろいろな分野の若者が集まる京都の
溜まり場でもあった。
だが、まもなくあのマクドナルドが日本に進出してきた。あっという
間にまず藤井大丸の支店が潰れた。本店も急に暇になってしまった。そ
して、若者たちも次第に訪れなくなり、店から活気がなくなった。
悔しさを越えて、悲しみで佐々木さんはいっぱいであったに違いない。
いつも元気な佐々木さんだったが、ぼくの目にはそう映った。
しかし、時代はそんなことには頓着してくれない。
そこで佐々木さんは考えた。もうハンバーガーだけではあかんと、夜
はステーキも出し、酒も飲める店に模様替えした。
「誰か店で歌える奴おらんやろか。それも金のかからん奴で……」
と芸能界を少しかじった知り合いに相談を持ちかけた。それがペップ
レコードの中川さんという人であった。
そしてその中川さんが突然、ぼくの下宿を訪ねてきた。ぼくにその店
で歌えとさかんに口説くのだ。
この中川さんには河島英五やあのねのね(清水国明・原田伸朗)など
も面倒をみてもらった。ちなみに、ぼくがその会社のレコード第一号で
「娼婦和子」という曲を出した。
(この曲はあまりに内容が刺激的で頽廃的だという理由で発売禁止にな
った。大体ぼくの人生にはこの種のつまずきが数え切れないほどあるん
です)
中華料理店の皿洗いよりは面白そうだったので、ぼくは口説かれるま
まに佐々木さんの店に移ったのである。
昼間はハンバーガーショップ。夜は、まあレストランというとこか。
出勤すると朝礼がある。
「じんちゃんなあ、うちは割合と時給は低いかもしれん。けど、そのか
わりハンバーガーはいくら食べてもええし、ビールも好きなだけ飲んで
ええからな」
佐々木さんが言う。(余談だが、ぼくのことをじんちゃん≠ニ呼ん
だのは佐々木さんが初めてだった)
飲み放題の食べ放題か。あまり客も来なくなった暇な店なので、その
日の食費にもことかくぼくには、佐々木さんの言葉が天使の声のように
聞こえた。それからはもう毎日ハンバーガーにビール、ビールにハンバ
ーガー。ぼくは天国、店は地獄だった。五十五キロしかなかった体重が
わずか数か月でなんと六十五キロになってしまった。
店は忙しくはなかったが客筋だけはよかった。(なにしろオーナーの
お母さんが芸者豆六ですから)
現在のオムロンの社長、ニッポンレンタカーの社長など一流会社の偉
いさんが顔を出す。佐々木さんの大学時代の後輩だったスケートの佐野
選手も来ました。歌舞伎の片岡孝夫さんも、あの藤山寛美さんも、寛美
さんには確か一万円のチップをいただいた。(今では娘の藤山直美に酔
ってはクダを巻いている。そんなことはどうでもいいか)
さて、夜の部のぼくの歌だが、夜のムードに合うような曲をぼくはま
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06月20日(日)
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