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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 極月〆日の極東極刑
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19921223
敗者の責任を問う極東軍事国際裁判は、天皇誕生日の起訴にはじまり
皇太子誕生日の絞首刑で完結した。偶然の連続によって大東亜戦争の重
要な日付と、内外関係者の命日のほとんどは、師走に集中している。
「天皇は裁かず」を原則とした首席検察官ジョセフ・キーナン (1888
0111〜19541208)の死亡報道は、八年前おなじ日に東京裁判国際検察局が
設置された、と付記した。
とりとめもない因縁にすぎないが、当時の不安な記憶から、敗戦後の
師走の日々を克明によみがえらせる。
十三年前、真珠湾「十二月八日」の午前二時五十五分の日本時間は、
現地時刻では前日午前七時五十五分、ホワイトハウスで午後一時五十五
分にあたる。つまり日本の日付に一致する時間帯は、ハワイ零時から午
前五時まで、ワシントンでは午前十時以前に限られる。
この時差を意図したのか、長崎市議会の共産党議員は、危篤状態にあ
った昭和天皇の「戦争責任」を市長に質問(19881207)、のちの銃撃テロ
(19900118)を誘発した。
「天皇機関説」批判に唱和した国粋学者・蓑田胸喜 (18940126〜1946
0130) の自殺はいかなる大義に殉じたか、さだかでない。しかし、東条
英機 (18841230〜19481223)の自決未遂(19450911)が、心臓部に墨まで
塗って狙いそこね、弾丸貫通で米兵に介護されるなど「戦陣訓」を公布
した陸軍大将にあるまじき失態と非難された。
ついで、藤原家直系の元首相・近衛文麿 (18911012〜19451216) は、
出頭の朝、確実な服毒死を選んでいる。
軍事裁判の初日(19460503)、生きながらえた東条の禿頭を、パジャマ
姿で出廷した大川周明 (18861206/0206?〜19571224) が平手で叩くとい
う珍妙な事件もあった。
精神鑑定の結果、スピロヘータ菌による進行性麻痺症状として審理除
外され、釈放(19481224)から九年後、すなわち戦犯処刑十八年忌の翌日
に病没している。
いまなお仮病説・佯狂論者は健在だが、もともと大東亜主義の思想的
指導者として立検するには役柄不足だった。
たとえば、蓑田胸喜が不敬罪で告発した《日本二千六百年史1939》は、
竹越与三郎 (18651122慶応11005 〜19500112) の旧著《二千五百年史
1896》に類似した題名で、かねて連合国はナチスのような民族思想を
想定していたとみられる。
イスラム文化との共存をめざす見識は、《回教概論19911225中公文庫》
の慶応書房初版(19420820)半世紀後の再版が示す。
いわゆる皇国史観は「皇紀」をふりかざして自滅している。東条が
(自決失敗の)幻の遺書に「日本三千年来」と安直に数えた年代は、皇
紀二千六百年(1939)祝典から逆算して存在しない。また神武天皇の即位
年初(-6590218J0211G)から一千年にわたる欠史時代こそ興趣あふれる空
白である。
ユダヤ紀元(-37601007J0907G) やローマ紀元(-7530421J0413G?) は、
後世に接続しない伝説的な暦日であって、エジプト紀元(-42410719J
0615G) は周期計算による。
勝者が敗者を裁く「復讐劇」は、大本営に法廷を設けて、天皇誕生日
の起訴状公布 (19460429) から、皇太子 (19331223〜)誕生日の絞首刑
(ニュールンベルグ裁判では19461016) に至って閉幕した。猪瀬直樹
(19461120〜) 説によれば、クリスマスに向けての効果的演出だったと
いう。
十二月十二日判決、二十二日の宣告から二十三日午前0時、巣鴨拘置
所の七人が、二室の刑場に導びかれた。 早朝未明の処刑はアメリカ式
であって、日本の慣習では午前九時に呼出し十時前後(監獄法[71-2]は、
大祭祝日と大晦日から正月二日までを除く)という。
教悔師・花山信勝 (18981203〜) は多忙をきわめ浄土真宗僧侶として
「殉国七士」の最期を見とどけ、戒名を授けた。
東条が、母方の従兄弟にあたる住職から得た生前戒名「英照院釈慈光
明朗居士」を返上したのは同行者への配慮とみられる。
あらたな戒名とは、「光寿無量院釈」に(姓を略して)俗名「英機」
を連記する。
上海総司令官・松井 (18780727〜) は、「光寿無量院釈石根」であり、
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12月23日(水)
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