ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
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■ 看板教授
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19701220
 Ex libris Web Library;山口 長男《平面》
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2002/2003/exhibition2003h1/img/wk_YamaguchiTakeo.jpg
 
── 阿波 雅敏《私との対話;看板教授 19701220 中日新聞》
 
 かつて私は、東京にある三つの美術学校を受験して、そのうちの一つ
に合格した。第三志望というわけである。
 当時の私は、職業としてのデザイナーをこころざしていたが、その美
術学校に対しては、特定の目標が、別にあった。入学案内というカタロ
グによれば、他の多くの私立の例で、著名な教授陣、画家、工芸家、デ
ザイナーの顔ぶれが並んでいて、その学生たるもの日々に親しく教えを
受けられる、と思いこんでいたせいである。
 私がひそかに、ねらっていたのはY画伯である。いわゆるタレントふ
うの知名度はないが、その世界では空前絶後ともいうべき独自の作風に、
不動の信念がまざまざと感じられる点に、かねて私はあこがれていた。
 ところが、私の期待は半年もしないうちに裏切られた。すなわち入学
案内に載っていた著名なる教授陣のなかで、ただひとりが、入学式であ
いさつした他は、上級生の話によれば、年に一度か二度、顔を見られる
のがせいぜいで、とても手をとって教えていただく、など望むべくもな
いらしい。かりに機会があったとしても、何百人も一緒にマイクを通じ
ての講義では何にもなるまい、まして美術学校なのだ──私はがっかり
してしまった。
 私が怠惰な下宿生活に堕ちていったのは、それだけが原因ではないが、
大きなアテがはずれたのも事実である。私の作品は、当時だんだん孤独
な色彩と偏狭なパターンに向っていき、担当教官に指摘されるまでなっ
た。
 その年頃にありがちな、特有の思いあがりもあって、私は授業にも出
なくなり、課題だけをメモして帰り、ひとり下宿で作品と取り組むよう
になった。やがて「君のような男は、学校で学ぶ必要はないようだ、ひ
とりで勉強した方がいいじゃないか」といわれるようになった。
 学校を退める他はない、と自分でも考えはじめた。しかし、それでど
うするのか、というアテはまったくない。いつの間にか、酒に親しむこ
とを覚えた。
 冬にはいって、暮に帰省する汽車賃まで飲んでしまい、ある夜オーバ
ーを質に入れて得たなにがしかの金をポケットに、私は安酒場に向って
歩いていた。人通りのない夜道を、向こうからひとりの中年紳士がやっ
てくるのに会い、私は、はっとするものがあって立ちどまった。
 Y画伯にちがいなかった。
 たった一度、入学案内の顔写真で見ただけなのに、決して特異でない、
ごくふつうの風貌であったのに、なぜか夜目にも明らかに、瞬時にして
思い出したのである。
 立ちつくしたまま、私はY画伯の通りすぎるのを見送っていた。声を
かけて名乗りでることはおろか、後日に直接その門を叩くなど思いも及
ばぬ、近づきがたい気迫が、その姿に感じられた。
 そのあと私は、安酒に酔いながら、ばくぜんと考えをめぐらせた。画
伯は、いかにも、あくまでも孤独の人だった。あの厳しい、一途なモチ
ーフの探究は、要するに孤独なひとり歩きの修験者にしかできる業では
なかったのだ。──画伯の若い頃は厳格な具象絵画の新鋭だったときく。
ある時期に翻然と今日の領域に転じた経緯は余人の想像を超えるものが
あったに違いない。
 それから半年後、私は学校を断念し、新聞広告をみて、ある看板屋で
働くことにした。絵筆を使う、いちばん末端のところで具体的に何かを
学ぶことに賭けたのである。
 その後、私は職業としてのデザイナーにはなれなかったけれども、自
分の歩みは、自分の拓く道においてしかあり得ない、との考えを今も変
えていない。
 Y画伯には、ふたたびお目にかかる機会もなく、時おり主として印刷
物で拝見する作品に、例の不屈の信念を認めるだけで、おそらく私にと
って今後も、看板教授であるはずである。 (アワ・ライブラリー主宰)
 
 ◇
 

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12月20日(日)
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