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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 一聴一席B京響・昨日今日         高山 義三 国際会館長をたずねて
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690519
 
── 国立京都国際会館の初代館長として すでに満3年 それまでの
16年間にわたる京都市長としての御活躍も 市民にとって記憶にあたら
しいのですが
高山 ぼくが市長になったころ 青少年の不良化について ひじょうに
心配されていた ぼくの考えでは よほど悪くなってしまったのは す
でに手に負えないから警察(当時は市警があった)にまかせよう しかし
まだほんとに悪くなっていない青少年には 市が責任をもって指導せね
ばいかん また彼らがなぜ悪くなっていくか と考えてみると 戦前の
若い者には 勉強の余暇になにか楽しみがあった 野球しかりブラス・
バンドしかりだった ところが 当時は“死んだはずだよ お富さん”
などという流行歌を子供までうたってる始末だった
 それより以前のことだが 忘れもしない ドイツ映画にこんなシーン
があった ……アパートの一室から ピアニストの練習がきこえてくる
ドアの外では 掃除のおばさんが できるだけ音をたてないようにして
働いている そこへ若い男が走ってくるので おばさんは唇に人差指を
あてて“ベートーヴェン……ベートーヴェン”と小声で制するや 男は
ハッとして 足音をころすようにして忍びあしで通りすぎていくわけだ
……ひとことベートーヴェンといっただけで みんなが こうして気を
つかうという点に ぼくは感動した
 この話を しばしば人に語っていたのだが 市長として 市政として
市民に とくに青少年のために クラシック音楽を推進するきっかけに
なったようだ そして チェリウス氏の進言もあって 京都市交響楽団
が発足した
 音楽をききにくる人たちを待っているばかりではなく そうでない人
たちのところへは こちらから出かけていって たとえば学校や公園で
無料の演奏会をどんどんやることにした やがてPTAを中心に合唱団
が育つようになり 少年合唱団もできた
── そして 京都会館の構想に発展していったわけですね
高山 京都はそれまで一流の名演奏家たちが たいてい素通りしていた
なぜなら 会場がなかったからだ 文化都市としては恥かしいことじゃ
ないか いつかは彼らが会心の演奏ができるような場をつくりたい と
切実に考えた
 京響にしても 円山音楽堂ばかりでは 雨の日は中止になるし 寒い
季節にはできない 本格的な文化の殿堂がどうしても要るわけだ
 しかし 当時8億という金は京都市にはない そこで 観光税という
ものを考えた これを政府に話したところ 賛同を得て ひとまず金を
借り いよいよ会館が建った 観光税については当初 神社仏閣では
じぶんに税金がかかるような錯覚を起した人もいて 反対意見もあった
が だんだんに説得してわかってもらった 京都へ観光にやって来る人
たちから税金をいただくわけで やがて年間一億の収入になった これ
で政府に返してきたわけだ
 京都会館の開館式で ぼくはこういった“ここは単なる貸ホールでは
ない 京都市民の文化の殿堂である”そして 演奏中の出入りはしない
など 細かにいくつかのエチケットを要求した これがちょっと宣伝が
すぎたとみえて あそこはうるさいところだと思われていたふしがある
ある団体が 他の小さな会場でやっているので なぜ 京都会館を利用
しないかと尋ねたら“いや われわれはまだとても”などと遠慮をして
いる そんな資格など無用だ 礼儀をきちんとわきまえてくれる人たち
には どんどん貸すんだ とわざわざ説明したこともあった
 ただし 政党の集会のようなものには貸さないつもりだった 仮に
政党が主催しても 映画とか真に文化的な催しに利用されるならいいと
思う そんなわけで 開館以来10年というもの 落書ひとつなかった
 それから音響効果については 以前ボストン交響楽団がきたときに
意見をきいて手直しをした 天井にデコボコをつけたのはその時だった
と思う さらにもう一度手を加えて いまや 完成されたコンサート・
ホールであると ぼくは考えている

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05月19日(月)
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