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与太郎文庫
by 与太郎
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■ 《創業70周年記念誌》発刊によせて
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19680804
 
 祝辞にかえて       中原 都男
 
 私は創社のすぐあとに生れ、しかも裏寺町の伯母の家にあずけられて、
立誠小学校を出るまで、このあたりに住んだ。おとなりの、さくら井屋
の主人・鳥井君は、私と同期の間柄で、そのころは、うるし絵の職人の
家であった。京都一の娯楽街であって、どんなにひいきめにみても、お
上品をものはなかった。
 ろくろ首の娘とか、がまの油売り、居合ぬき、チョンガレ(浪花節の
前身)ぶし、チョンキナ踊り、ヘラへラ踊り、などの見せ物小屋が、た
らたらおりを降りたところから四条へぬけるまで、立ちならんでいた。
いわば、庶民の息ぬきどころであった。三条通りも、東海道の表通りと
はいえ、チョロケンや裏寺町の席貸しもどりの酔客のよろよろ足、千鳥
あしの通りでもあった。
 横田商会による活動写真のかけ小屋が今の美松入口の電気館という常
設館になって、ヂゴマとか、新馬鹿大将といった題名の、他愛もないフ
イルムが、珍らしさのためにか大きな人気を呼び、客が殺到した。
 東でのジンタ、こちらの東西屋さんが、大太鼓とトロンボーン、クラ
リネットをはやしをがら町々をねり歩いた。十字屋の店先に、洋楽器類
がならべられたのも、その頃であったと思う。物珍らしげに私たち子供
は、じっとガラス戸に飾られたブラス楽器の輝やきに魅せられて、いつ
までもたたずんだことが、思い出されてくる。日露戦争の前後からは、
一挙にブラスバンドが盛大になったようである。明治40年頃は、もう京
都唯一の洋楽器の店となり、先代ゆき刀自の、みずみずしい丸まげ姿が
美しかった。子供心にも美しい婦人とうつった。
 えびす座とか、明治座とかいう芝居小屋がたてられ、たらたらおりを
下ったすぐ東側に川上音二郎のオッペケペ節の壮士芝居があり静間小次
郎という巡査上りの役者が人気の的であった。
 このようなかいわいに、十字屋がでんと店をはってかまえたわけで、
洋楽界の初期に、しかも、かような猥雑な土地に、よくぞ東京から来て
店を開かれたものと思う。いわば、不毛の土地を開拓する不屈の人物で
なければつづくものではない。故吉田恒三翁と、田中伝七翁とのつなが
りと、交友とは、稲畑登美女史の京都音楽協会編・京都音楽史にもうか
がえる。
 こうして大正期には、大正琴のブームとなり、女主人ゆき夫人が、や
やうすぐらい店の西側にすわって大正琴をひいて、いうならば生きた展
示をされていた姿が、なつかしく、よみがえってくる。
 さて、かような昔話をしていると、とても尽きそうにもない。戦後、
京都市立音楽短期大学ができることに在り、その準備期間に、どうして
もピアノが10台要ることがわかった。昭和26年秋のことである。出雲路
立木町にある市立堀川高等学校の分校々庭に、ある日、ふとみると、ト
ラックをならべたてて、こもをかぶったピアノ10台の荷を、田中ゆき前
会長が先頭となって、のりこんで来られた。私はびっくり仰天した。誰
もおねがいを申したわけではない。これが大人物の腹芸というものかと、
ひざを叩いた。水際だったあざやかさであった。このようなエピソード
をかぞえたてればきりがあるまい。このようなことが積もりに積もって
今日の繁栄となったのであろう。実に天の倉に富をたくわえる人であっ
た。まさに音楽業界の女王であり、また母であった。
 令嗣昌雄氏、愛孫義雄氏らの家族を仰いで森吾市、鈴木伝、村井英二
氏らの大番頭諸氏が、先代の志を志とされて渾然、調和されての日々を
見る秋、私はただただ尊いこと、ありがたいことだ。どうか更に、天の
時、地の利、人の和の三事相応しつつ、亭亭として天に摩すの大樹と繁
茂せられることを祈ってやまない。万歳、おめでとう。
 
(東京芸術大学音楽学部同声会京都支部長)
 
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 発刊によせて       小石 忠男
 
 歴史は未来を映す鐘であるといわれる。過去の事蹟をふり返り、現在

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08月04日(日)
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