ID:87518
与太郎文庫
by 与太郎
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■ 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570602
 
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
 ↓Edita for text ↑Index 000000=19020102〜99991231
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 from Our Pictures;19570602-0
 
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 客体から主体へ 〜 現代芸術の理解のために 〜 竹内 康
 
…… 近頃、「電子音楽」だとか「アンフォルメル」という様な芸術が
はびこり出して、奇異な感じを持たれる人々も少なくないと思いますが、
私がこれから、言おうとする事が少しでもそういう物の理解に役立て
ば幸いだと思います。
 今ここで私は客体から主体へという哲学的な言葉を取り上げましたが、
哲学と芸術と何の関係があるのだと思われる方もあると思います。しか
しそうういう関係があるという事がもう既に現代の芸術の性格なのです。
 
 さて前置はこれぐらいにしてテーマの「客体から主体へ」という事に
ついて書いて見たいと思います。
 客体から主体へという変化はまず他律から自律へという事により始ま
ります。この段階に於いては一人の人間とその周囲の他のものが問題に
なるわけです.即ち社会とかそういう個人以外のものが客体であり、一
人の個人が主体となるのです。
 次の段階にはいると所謂外面的な自己というものから内面的自己へと
変っていきます。これは言い換えれば自己というものを意識しない状態
から意識する状態へと変るわけです。
 更に進みますと、ここに自己の意識の中に客観的な自己から主観的な
自己へと変るのです。客観的な自己とは、即ち自分自身の中に第三者た
る自己を作るのです。そうして自分の行動とか精神とかそこの第三者の
目を通して見るわけです。一般にこの第三者というものは一つのある価
値判断の基準として存在します。そしてそれは自己の言動に価値を下す
わけです。こういう状態を最も良く現わしているものに「モラル」とい
うものがあります。即ち人はこれを絶体的なものとして自己の内に持つ
のです。そして、自分の行動あるいは精神的な活動をこれによって良し
としあるいは悪しとするのです。そしてその価値判断により自己の存在
を決定するのです。
 しかし何もこういった状態はモラルには限りません、もっとおし広め
て考えるなら、人間というものは大程この状態にあるものです。人生に
目標を持って生きて行くだとか、日々の生活を反省してより良きものに
するだとかいう事は、すべてこの状態にあるのです。
 しかしこういう状態では残念な事に、一度その客観的な絶体としてい
るものが無くなると、たちまち自己を見失なってしまうのです。それに
又、もう少し考えて見ますとその絶体としている価値判断の基準は決し
て絶体ではありえないです。もしそれが絶体なればそれほとりもなおさ
ず真理であり、価値の基準というようなものがあるならば何も我々は無
限という事に悩まされる必要はないわけです。謂はばその様な状態では
自分で自分の身体を自分で編んだ縄で縛っているのにほかありません。
こう云う事が馬鹿げた事であるといっ事は云うに及びません。
 所で先に少し触れましたが、絶体としている客観的自己がその非絶対
性を表わしてくると、たちまち自己を見失ったり、非常な精神的危機か
やってくるのです。自殺というものがその最も端的なものです。もっと
も自殺の総てがこれではありませんが、しかし、この様、な自殺が最も
多いのではないかと思います。しかしながら、こういう危機を通してこ
そ、人間は更に進んだ段階へと進むわけです。
 さて、主観的自己と申しますと、その字の示す通り、自分自身を主観
的に見るわけです。即ち、自己の感情とか理性に忠実に行動しようとす
るのです。こういう状態の典型を私は、ヘッセの「デミアン」の中に見
い出します。しかしこれとても、自己自身を主観的に見て自己という客
休を作っていて、それを絶体化しているわけで、前述の段階とは大差無
いものなのです。
 所でいよいよ次の段階として私の本題とする所の主体的自己というも

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06月02日(日)
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